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雑記+ブックレビュー

書評というほどのものはありません。読んだ本に絡めて、日々思うことなどを書いていこうと思います。

東芝不正会計事件の研究: 不正を正当化する心理と組織

東芝の事件については日経などのネット記事で端々の情報は入手していましたが、全体像を知りたいと思い本書を読んでみました。
似たような本としては「粉飾の論理」を読んだことがあったのですが、これに比べると技術的には非常に簡単な構造だと思います。
工事案件で適切な時期に減損処理を行わなかった問題、不正バイセル問題、費用発生の時期を後ろにずらすことにより見かけ上の損益を改善した不正など、いずれもやっていることはマイナスの先送りす。
それよりも、会社の歴代トップと相当数の関係者がこれらの不正を推進してしまったということが、最大の特徴のように思います。
普通は不正というと、その発覚リスクを低減するために可能な限り少数の人間だけが関与するというイメージがあるのですが、東芝においては末端の人員含めて100人は下らない社員がこの不正を知っていたと思われます。
これが成り立ったのは、東芝という会社の社風によるものが大きいのでしょう。

本書では様々な問題点が指摘されていますが、なかでも社外取締役や会計監査人、そして第三者委員会といった会社の不正を防いだり暴いたりする役割を持った者が、会社側から報酬を得ているというのは根本的な問題だと思います。
これは日本特有の問題ではなく海外でも同じなのでしょうが、日本では株主の権力が小さいためにたとえ不正を見逃しても訴訟を起こされるリスクは比較的小さいです。
そのため、不正を見逃すことで会社側のご機嫌をとる方向に流れてしまうのでしょう。
今回、新日本監査法人がそれなりに厳しい処分を受けたため、監査人については今後改善がみられるかもしれません。
(実際、東芝を新規に監査することとなったPwCあらたと東芝は鋭く対立することとなりました。)
しかし、社外取締役については、少なくとも日本においては単なるお飾りの状態が続くことでしょう。

もう一つ大きな問題は、東芝では歴代の役員が相談役や顧問として社に残り続けることです。
このため、過去のトップによる不正や失敗を修正できない体質にあったことです。
これは現在でもまったく変わっていません。
  • 不正会計が発覚したのちも、小出しで米国の原発子会社に関する不正な会計が次々と明らかになった。
  • 東芝がかつての役員に対して起こした訴訟における、対象者と賠償請求金額が極めて限定的である。
  • 米国の原発関連子会社の不正経理を指摘した監査法人に対し、契約解除をちらつかせて恫喝した。
  • ほかにも不正がないかを洗い出すための社内アンケートを記名式とした。
など、客観的に見て社として反省しているようには全く見えません。
こういう大きな事件があるとこれを契機に会社というものは大幅に変わると思いがちですが、過去のトップが残る以上、社風というのはそんなに簡単に変わるものではないということだと思います。

私もサラリーマンをやっていますが、私に見える範囲にも気に入らない報告が来ると怒り出すトップというのは存在します。
この場合、正直な報告をしてもらちが明かないので、特に気の弱い人、まじめな人は飾った内容、時にはうその内容を報告することになります。
予算 (売上、利益等の計画) では特にこれが顕著です。
恫喝されてうその計画を報告して、何か問題があったら「お前らが自分で約束した計画だ」といって自らの責任を回避するというのは、どこでもあることなのだと思います。
確かに東芝ではその度合いがひどかったのかもしれませんが、この手のうその連鎖は密室で発生するために本当に厄介です。
個人的にはこういうのを見ると、絶望感すら感じてしまいますが…。

本書の記載はとても分かりやすく、専門外の人間でも理解は容易だと思います。
東芝に就職しようと思う人はぜひ読んでみたほうが良い本だと思います。
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  1. 2018/08/13(月) 23:16:12|
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滝口入道

本書は、高山樗牛が東京帝大在学中に執筆したものとして名高い作品です。
以前から本書の存在自体は知っていたのですが、「明治の文学 」で紹介されていて興味を持ち、青空文庫で読んでみることにしました。

特に驚きなのが、極めて美しい擬古文で書かれていることです。
20代前半の若者がこんな文章を書けるというのは本当に信じがたいです。
「明治の文学」には樋口一葉の20代のころの日記も掲載されていましたが、こちらも見事な擬古文でした。
(一葉は24歳にて亡くなっているので、20代以降の日記はそもそも存在しようがないのですが。)
当時の教養ある人々は、擬古文を造作もなく使いこなしていたのでしょう。
本書でとくに有名なのは冒頭部です。
やがて來む壽永の秋の哀れ、治承の春の樂みに知る由もなく、六歳の後に昔の夢を辿りて、直衣の袖を絞りし人々には、今宵の歡曾も中々に忘られぬ思寢の涙なるべし。
驕る平家を盛りの櫻に比べてか、散りての後の哀れは思はず、入道相國が花見の宴とて、六十餘州の春を一夕の臺に集めて都西八條の邸宅。
君ならでは人にして人に非ずと唱はれし一門の公達、宗徒の人々は言ふも更なり、華冑攝※(「竹かんむり/(金+碌のつくり)」)の子弟の、苟も武門の蔭を覆ひに當世の榮華に誇らんずる輩は、今日を晴にと裝飾ひて綺羅星の如く連りたる有樣、燦然として眩き許り、さしも善美を盡せる虹梁鴛瓦の砌も影薄げにぞ見えし。
あはれ此程までは殿上の交をだに嫌はれし人の子、家の族、今は紫緋紋綾に禁色を猥にして、をさ/\傍若無人の振舞あるを見ても、眉を顰むる人だに絶えてなく、夫れさへあるに衣袍の紋色、烏帽子のため樣まで萬六波羅樣をまねびて時知り顏なる、世は愈※(二の字点)平家の世と覺えたり。
平家滅亡後を知る立場から、武家の人間たる平家が八条殿における華やかな遊びにうつつを抜かす様子を描写した文章。
美しさと無常を兼ね備えた名文だと思います。

ストーリー自体は単純で、重盛の部下であった滝口入道と横笛の悲恋物語と、平家滅亡に際して入道を頼って逃げてきた維盛を心を鬼にして追い返したのち自らも自害したという忠義物語の構成です。
古典的な悲劇ではありますが全編にわたり文章の勢いにゆるみがなく、きわめて「読ませる」話だと思います。
ただし、擬古文調になれていないといったい何を言いたいのかすら追うことが難しいかもしれませんが…。

京都にある滝口寺は、滝口入道ゆかりの地です。
一旦は廃寺となっていたのですが、本書がブームとなったために有志の人々が再興させたとのことです。
しかし残念ながら現代においては、滝口入道の物語自体が一般にはあまり読まれているとは言えません。
なぜなら、擬古文帳は現代人にとってはあまりにも遠く、しかも本書を現代文に直すとその魅力は大幅に減少してしまうからです。
そのためか、滝口寺は隣接する祇王寺(こちらも平家ゆかりの寺です)に比べて観光客も少なく、さびれているように思います。
今後も高山樗牛の「滝口入道」が今以上に読まれることがあるとは思えません。
いつの日か、本書も教科書に載るだけで誰も読まない作品となるのは惜しいものです。
  1. 2018/08/11(土) 23:32:28|
  2. ★★★★★
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グローバル資本主義と〈放逐〉の論理――不可視化されゆく人々と空間

著者のサスキア・サッセンの本は、「グローバル・シティ」を読んだことがあります。
極めて綿密に論理が組み立てられていて面白かったので、本書も本屋さんで見つけて読んでみることにしました。

本書では、一見それ自体は有害ではない技術革新によって生み出されたものが原因で、とくに貧しかったり力を持っていなかったりする周縁的な人々がさらに弱体化していっていることを主張しています。
もっともわかりやすいのは、GDPベースでは各国経済は成長しているにもかかわらず、貧富の差が激しくなり貧しいものはますます貧しくなっているということです。
とくに大企業の収益に対して支払う税金の割合が、過去と比較すると大幅に減少してしまっていることが示されています。
これはおそらくは、ネットワークの発達によりさまざまなものが国境を超えることが容易になった結果でしょう。
多国籍企業にとって、もっとも税金の安い国にビジネスを移動することが過去とは比べ物にならないくらい容易になりました。
この結果、税金の高い国からはビジネスが流出し、税金の安い国に逃避してしまうこととなります。
各国政府は税収を増加させるために税率をあげたいのですが、一方で企業活動がなくなってしまうとそもそも税収がまったく得られないというジレンマに陥ったため、減税競争に陥っているように見えます。

また、金融商品(デリバティブ)の発達によってあらゆるものが金融商品化された結果、投資家たちの収益が増大する代わりに一般の人々に対する収奪が激しくなったことが示されています。
これらの金融商品は非常に複雑な内容であるため、一部のごく限られた人々のみがその全貌を理解しています。
金融商品の開発は数学的な技術の発達によるものでありそれ自体は悪ではないのですが、技術が独り歩きすることにより収奪の道具と化してしまっています。

著者はこれ以外にも環境問題についても述べています。
しかし、個人的な感想としては、「グローバル・シティ」にくらべて各論の結びつきが弱いように思いました。
環境問題は特に「浮いた」内容で、本書の他の部分とのつながりが非常に薄いです。
弱者が虐げられているという点だけ見れば同一なのでしょうが、それだけですと単にこの世に対する危機感を漠然と述べただけのものでしかありません。
「グローバル・シティ」ほどの気合を入れたものではないのでしょう。
  1. 2018/08/11(土) 23:11:29|
  2. ★★★
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明治の文学

古本屋にて100円で購入した本です。
「月刊文章」の特別号として発行されたもので、単行本というよりもムックのようなものだと思われれます。
明治が終わってから30年近くが経過した昭和13年発行であることを考えると、現代から見た昭和を振り返るのと似たような感覚なのかもしれません。

明治文学といえば、坪内逍遥の言文一致に始まり、尾崎紅葉の硯友社、浪漫主義、自然主義、そして漱石鴎外というのが大雑把な流れです。
当然ながら本書でもこれらの作家は取り上げられているのですが、さらに深く今では半ば忘れ去られたような山田美妙や斎藤緑雨などにも章が割かれています。
さらには、当時の流行歌(「ノーエ節」「改良節」)や新聞社説なども取り上げられていて、当時は「文学」の守備範囲が今よりも広かったのがよくわかります。
今でこそ文学というとハイカルチャーな受け止められ方をしています。
一方で、二葉亭四迷が文筆家としての道を歩もうとしたときに父親から大反対を受けたというエピソードからも、明治のとくに初期は文学はまともな人間の仕事だとは思われていなかったのかもしれません。
そう考えると、文学と俗謡の親和性は今よりも高かったのでしょう。

本書には作家自身の日記などがふんだんに引用されています。
樋口一葉の文章と、それ以外の作家(北村透谷、高山樗牛など)とを比較すると、当時は男の書く文章と女の書く文章が全く異なっていたことがよくわかります。
「男もすなる日記といふものを…」という出だしで始まる「土佐日記」では、紀貫之は女性のふりをして女性の文体を通したのですが、一葉の文章も平安時代の日記文学にとてもよく似ています。
一方で男性の文章は漢文調の候文が主体で、どちらかというと高校で習う古文に慣れた私にはやや読みづらかったです。

今の本屋さんで入手できる文学史の本には書かれていないような、細かい内容が多くてとても面白いと思います。
雑誌の増刊という扱いから、あまり図書館にも所蔵されていないようですが…。
巻末に「明治の傑作小説短篇化」なるコーナーが設けられ、幸田露伴の「五重塔」や徳富蘆花の「不如帰」などが極めてコンパクトにまとめられていますが、「漫画で読める名作」の類の本をを思い出しました。
今も昔も、意外と読者の要望は似ているのかもしれません。
明治の文学|書誌詳細|国立国会図書館オンライン
  1. 2018/08/04(土) 21:42:55|
  2. ★★★★★
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趣味と研究とに基ける仏様の戸籍調べ

古本屋で見つけた、大正7年発行の本です。
「戸籍調べ」とありますが、戸籍帳の体裁をとっている節とそうでない節がばらばらに入り混じっていて、統一感があまりありません。
「趣味と研究に基ける」というタイトル通り、いち個人がコツコツと書き留めた雑記のような印象を受けます。
現代なら自費出版されたりするのかもしれません。

仏教はインドから中国の長い道のりを経て、日本に伝わりました。
その際、それぞれの経由地、および日本で土着の宗教とまじりあっているので、複数の神々や伝説的な人物、実在の人物などが統合されて仏さまが出来上がることが多いです。
そのため、仏さまの系統は極めて入り組んでおり、複雑化しています。
全く異なった存在でありながら同じ名前を持った仏さまがいたり、ある一つの土着の神から複数の仏さまが派生したり…。
日本にも本地垂迹なる考え方があるのですが、ここにおいても神と仏は一対一の対応ではなく、寺社によって関連付けが異なったりします。
本書では、著者が調べた限りの仏さまの由来について、手あたり次第に書き記したようなものです。

やむを得ないことではありますが、全く体系だった記載がなされていないのでとても混沌とした文章です。
スラスラ読み終えることができるのですが、頭には何も残りません。
面白いのは面白いのですが、やはり物足りなさを感じるのも事実です。
たまたま古本屋で見つけただけの本に多くを求めること自体が間違っているのかもしれませんが。
  1. 2018/07/26(木) 00:19:15|
  2. ★★★
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フランスの学歴インフレと格差社会

古本屋さんで100円で入手した本です。
学歴に関して、かなり前に「学歴貴族の栄光と挫折」という本を読んだことがあります。
これには、日本において戦前くらいまでは大卒の時点で企業や官公庁の幹部、または大学教授への道が約束されていたのに対し、戦後になると大卒の価値が薄まってしまったことが述べられていました。
本書はフランスの話なのですが、おおよそ言いたいことは似通っています。

本書の主張を箇条書きにすると、以下のようになります。
  • フランスにおいて高等教育をより広い層に受けさせることは、ほぼ無批判に良いことだとされている。
  • しかし、これは高等教育の中でも序列化につながり、最高等のグランドゼコールの価値は保たれるが、それより低位の高等教育修了者はかつての低学歴者が受け持っていた仕事に就くこととなる。
  • 学校の外部に存在する社会階層による不平等を緩和しない限り、高階層者の子女が高階層となる「階層の再生産」はなくならず、高等教育の大衆化だけによって階層の流動化を目指すこと自体に無理がある。
  • 低位の職業にしか就けなかった高学歴者は、同じ仕事に就いている低学歴者よりもより強い不満を持つ傾向にある。
  • 高学歴者が増えることにより社会の統合が促進されるという主張もあるが、高学歴者ほど犯罪率が低いというデータは得られていない。
  • 学校での勉強の能力と仕事での能力は必ずしもリンクせず、ごく若いうちに勉強という限られた能力を用いて社会の序列を確定させることは公平とはいい難い。
  • 学校における教育では、社会で役に立つ可能性の低い勉強だけでなく、社会経験を重視した内容とするべきである。
いずれも、どこかで聞いたことなる主張ばかりです。
しかもデータが極めて乏しく、著者がそう思っているだけではないかとしか言えない、極めて説得力の低い内容のように思えました。
(内容の多くには同意するのですが。)

著者が見落としているのが、遺伝的な側面だと思います。
これも言及すること自体タブー視されることが多いのですが、個人的にはかなりの程度で学力は遺伝するものだと思っています。
勉強の才能を持った両親からは、勉強の才能を持った子供が生まれやすいということです。
もしこれが本当だとすると、たとえ子供に対する完全な機会の均等が与えられたとしても、階層の再生産は避けることができません。
現在の教育制度は結果の平等ではなく機会の平等を目指しており、これは穏当な方法だとは思います。
しかし、そもそも勉強に対する才能が低い子供をどう扱うかという根本については、極めて難しい問題だと思います。
  1. 2018/07/15(日) 20:24:18|
  2. ★★
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アンダーグラウンド

オウム真理教による地下鉄サリン事件の被害者に、村上春樹本人が実施したインタビューをまとめたものです。
少し前に、「地震」を読み終わった翌日に大阪で比較的大きな地震が発生したという偶然がありました。
これに引き続いてなのですが、本書を読んでいる最中にオウム真理教の死刑囚に対して死刑が執行されるというのも、また不思議な偶然です。

アンダーグラウンドが発売された当時は、非常に大きな驚きがありました。
長らくマスメディアから離れ、現実感の薄い内省的な世界を題材として小説を書いてきた村上春樹が、突然地下鉄サリン事件という極めて現実的な出来事をもとにしてノンフィクションを公開したからです。
本書でインタビューした人々の多くは、マスコミからの取材に対して大きな不信感を抱いてきたとのことです。
それにもかかわらず著者のインタビューに応じたということは、彼がこれまでマスコミから一線を画してきたという「名声の貯金」を保有していたことが貢献したのだと思います。

サリン被害者のインタビューを受けた方々に残る後遺症には、共通する点が多く存在します。
視力の低下、集中力の低下、体力の低下、物忘れなど…。
医療検査で測定できる数値としては正常に戻ったとしても、現在の技術では検知できないような何かがまだ元に戻っていないのでしょう。
気の毒なことです。
犯人たちへの思いについては、即刻処刑するべきだという人々、特に何も意見がないような人々、そして思い出したくないという人々に分かれるように見えます。
彼らに更生を望むというような意見は皆無でした。
本来は犯罪を犯したものは、相当する罰を受けて更生することが期待されるものですが、被害者から見ると彼らは更生の対象ではないのかもしれません。
今般の死刑執行により死刑への賛否の議論がなされていますが、犯罪被害者の心情としては死刑を廃することはなかなか納得がいかないようにも思います。

首都圏以外に住むものにとっては、インタビューを受けた人々の通勤事情、仕事事情に驚きました。
片道2時間かけての通勤は普通のことであり、かつ彼らは毎日14時間以上会社にいたりもします。
子供に会うのは週に1日しかないという人も複数人いました。
20年以上前の出来事とは言え、このような長時間の通勤を放置していたのでは、今はやりのワークライフバランスなどというものは成り立つわけがないと思いますが。
  1. 2018/07/14(土) 23:52:48|
  2. ★★★★
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パンタレオン大尉と女たち

古本屋さんでバルガス・リョサの本を見かけたら買うようにしています。
本書はこれまでに読んだ「世界終末戦争」や「緑の家」に比べるとコメディ色の強い作品です。
駐屯地における軍人が地元の女性を暴行するという事件が多発したため、軍によって秘密裏に売春婦の定期的な巡回が計画されます。
(本書では「婦人巡察部隊」と呼ばれます。)
売春婦の組織化を命ぜられたのが、極めて有能で品行方正な軍人であるパンタレオン大尉でした。
彼の綿密な事務処理能力と売春婦たちへの公正な取り扱いにより、組織は大成功をおさめて拡大し、ついには一般人にもその存在が知れ渡ることになります。
パンタレオンはその清廉さによって、「巡察」を受ける軍人や売春婦たちからは絶大な信用を得るのですが、マスコミへの賄賂を拒んだために大々的なスキャンダルに発展しました。
最後には、殉職した売春婦の葬儀においてパンタレオンが軍服姿で弔辞を述べたことによって組織は完全に表ざたになり、パンタレオンはアンデスの奥地に左遷されて物語は終わります。

売春に絡む卑猥な事柄が無味乾燥な事務文書の形式で報告されるのですが、このあたりは完全なるコメディです。
ただ、その割にはリョサ特有の同じ段落内での予告なしの場面転換も頻繁に見受けられるので、うっかりすると全く筋が追えないという事態に陥ります。
コメディだからといって気軽に読むことができないという、なんとも難しい作品です。
本書に登場するパンタレオンは、一本気な軍人が自らの筋を曲げずに軍隊組織の恥を明らかにしたために左遷される、という点において「都会と犬ども」のガンボア中尉と人物像が極めて似ています。
リョサ本人が士官学校時代に軍組織の腐敗に対して大きな失望を感じたとのことですが、本書でもこの失望の強さが感じ取れます。

本書はとても万人向けとはいい難いです。
筋書き自体は難解ではないのですが、文章の特徴によりとても読みづらく、かつこの読みづらさに見合った内容でもないように感じました。
売春婦という存在に対する一般社会からの軽視、そして軽視する側の一般社会そのものの堕落というテーマは、「脂肪の塊」でも見られたものですが、さすがにリョサの作品のほうが現代的で洗練されたものではあります。
  1. 2018/07/09(月) 23:17:42|
  2. ★★★★
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巨大建築という欲望―権力者と建築家の20世紀

都市の高層化を扱った本は「都市は人類最高の発明である 」などを読んだのを思い出します。
人口が増加するにつれて渋滞や環境問題といったコストが発生するのですが、これを解消するためには高層ビルに対する規制を撤廃して、都市部の人口密度を上げるべきだという議論です。

一方で本書はこれとは少し違った視点から建築を扱っています。
一般の人々にとっても不動産は大きな買い物であり、一生で何度も買い替えることができる人はまれです。
まして、多くの人の目につくほどの巨大な建築物には莫大なお金が必要となります。
こういったランドマーク的な建造物を手掛けることは、建築家の花形となる仕事でもあります。
このことから必然的に、有名な建築家は大量の資金を建物に費やすことのできるパトロン、多くは独裁国家の支配層や宗教法人、民主国家であっても後世に自らの業績を残したいと思っているような人物と深い付き合いを持たざるを得ません。
本書は、こうした大きな建築物が持つ権威的な性質について述べたものです。

最も典型的な例として、ヒトラーの総統官邸が最初に登場します。
チェコスロバキア大統領エミール・ハーハがヒトラーに降伏するために総統官邸の内部を歩いた目線を通して、この建物における巧妙な仕掛けが明らかになります。
官邸に足を踏み入れて最初に通過する広間は、下記のようなものでした。
壁面には、燃える松明をつかむ鷲と樫の葉飾りが描かれた、ゲルマンの自然宗教的なモザイク画がはめ込まれており、床は大理石で滑りやすい。
この広間には家具が一つもなく、その近寄りがたさを和らげるための絨毯すらどこにも見当たらない。
大理石の床の頭上には曇りガラスの天井が宙吊りになっており、その内側にある電気照明が陰影のない明りを、容赦なくモダンな、アールデコ風ともいえるような雰囲気で投げかけていた。
(中略)
これは人を感服させる以外になんの目的もない場所なのだ。
確かに、美しい建造物には人を圧倒させる力があります。
そして、国家や宗教団体、その他権威を得たいものにとってはこの建築物の力は非常に有用です。
芸術家と政治というのは多くの場合かかわりが非常に深いものですが、その中でも建築家はその作品にかかる費用の大きさと、成果物が人を圧倒する力によって特に権力とのつながりが深くなるものなのです。

そして、権力を持ったものはしばしば生きているうちだけではなく、死後もその権力が続くことを望みます。
この点においても、建築物は(見かけ上は)人の寿命を大幅に超えて存続するものであることから、彼らの望みを満たす道具にもなりえます。
人類が力を傾けた最古の試みの多くは基本的に建築に関連したものだ。
それらは明らかに生身の人間のはかなさを、天体の見た目の恒久さと結びつける方法を探ろうとする衝動の跡を示している。
しかし、支配される側の民衆にとってはその費用を賄うための搾取は致命的な負担となります。
結局は一部の権力者のエゴ、自己顕示欲の道具として使われる建築物のために、大多数の民衆は犠牲になるということが繰り返されてきたのでした。

私が初めてアメリカのリンカーン記念堂をはじめとしたナショナルモールの一連の建造物を見た際に、その大きさに圧倒されたのを思い出します。
本書でも触れられていますが、巨大な建築物はしばしば国家の創造(ねつ造ともいえるかもしれません)にも利用されます。
最近の日本でこのような巨大建築物が存在しないのは、島国で比較的「日本人」意識が浸透しているからなのかもしれません。
一方でアメリカは「合衆国」というだけあって、その国民意識の強化に意識して努める必要があり、その結果がナショナルモールの一連の建造物であり、または大統領が退任後作られる「大統領博物館」(実態は元大統領を称賛するために代替わりの都度建設される巨大な記念館)なのかもしれません。

本書は極めて分厚いのですが、その割には地図や図版、注は充実しているとは言えません。
そのため、それほど読みやすい本ではないような印象を受けました。
内容はとても充実しています。
残念ながら絶版のようですが、定価の税別3800円という価格は内容を考えるととても割安だと思います。
  1. 2018/07/07(土) 23:33:08|
  2. ★★★★
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お菊さん

プルーストの部屋」では当時のジャポニズムの流行について何度か述べられていますが、その中で触れられていたのが本書です。
著者が19世紀後半に海軍士官として日本に滞在した際に日本人女性と「結婚」して同棲した経験を記したものであり、フランスに日本に対するオリエンタリズム的な興味を引き起こしたもととなる物語でした。

著者は日本に赴任する際に、日本人女性と「結婚」しようと思い付き、日本人コーティネーター(ムッシュ・カングルウ)に適当な女性の斡旋を依頼します。
その間、日本人の芸者を垣間見た著者はその芸者との結婚を所望しますが、コーティネーターは意に反してより幼い「お菊(マドモアゼル・クリザンテエム)」を連れてきたために、彼女と同棲生活を送ることになります。
しかし、海軍士官は数か月で転任して二度と任地には帰ってこないのが通例です。
著者の周囲にも日本人女性と「結婚」した海軍士官もいたのですが、彼らも著者も一時の慰めとしてのみ日本人女性を求めたのは明白でした。

著者たちの日本人女性に対するとらえ方が分かる文章を引用します。
彼女らはすべての日本の女のように、華奢な小さな首筋をしている。
その上、こんな風に大勢して並んでいると、彼女らはおどけている。
彼女らのことを話す時に、私たちは「芸のできる子犬」という。
そうして彼女らの動作に、そういう点のたくさんあることは事実である。
まさにペット感覚だったのでしょう。

本書をきっかけにフランスに知られるようになった単語として「ムスメ」があります。
ムスメというのは若い少女もしくは非常に若い女を意味する言葉である。
それはニッポンの言葉の中でも一番きれいな言葉の一つである。
その言葉の中にはムウ(彼女らがするような、おどけた可愛い、小さいムウ(口もとを歪める事))と、それから、殊にフリムウス(彼女らの顔のような愛嬌のあるフリムウス(顔つき))とがあるように思われる。
私はこれからこの言葉をしばしば使うであろう。
これに当てはまる言葉をフランス語では一つも知っていないから。
この文章だけ見ると、フランス人が美しい日本を再発見したように見えます。
一方で、「プルーストの部屋」では、「失われた時を求めて」における下記のような文章が紹介されています。
あきらかに、私がアルベルチーヌを知るようになったころは『ムスメ』というのは彼女には未知の語であった。
そのまま事態が正常に進んだのであったら、そんな語を彼女が知ったはずがない、というのがほんとうだろう、そして私にとってもそれについて気になることはなにもなかっただろう、というのもこれ以上に身の毛立つ語はないからである。
上記「ムスメ」の語の注釈からだけでは、なぜ「失われた時を求めて」の主人公がこれほどの嫌悪感を示すのかがわかりません。
「プルーストの部屋」の著者は、下記のように結論付けます。
<ムスメ>が私たちの考える<娘>、単なる若い女ではなく、フランス人には快楽のための人形を意味していたことは、ロティの『お菊さん』でもすでに明らかである。
私もこれは全く同感です。
著者から見るとお菊さんはペットであり、人形であり、快楽の道具でもあり、かつオリエンタリズム趣味を満足させる珍しいコレクションでもあったのです。
そして、本書には確かにこれを裏付けるような記載がまんべんなく散りばめられています。

著者はたった3か月の滞在の中で、早くもお菊さんに飽きてしまい最後には倦怠を感じるようになりました。
そのころに転任の命令を受け、あっさりとした別離のあいさつののち永久に日本の地を去るのです。
当時の西洋から見た日本、更に言えば西洋から見た非西洋地域がよくわかる本だとは思います。

  • 便宜的にamazonのリンクを貼り付けていますが、ネット上に本書は無料公開されています。
    いつまで公開され続けるのかは不明ですが。
    http://mo-kawamura.com/okikusan.pdf

  1. 2018/06/20(水) 23:47:08|
  2. ★★★
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地震

古本屋さんで見つけた本です。
1933年(昭和8年)に発行されたものを、1993年(平成5年)に再版したものです。
阪神淡路の震災が1995年なので、再版当時は必ずしも地震に対する関心が高かったわけでもなく、なぜわざわざ60年も前の本をそのままの形で再版したのかは不思議ではあります。

本書は、基本的な地震に関する知識を解説したものです。
縦波と横波の違いや、地殻構造による伝搬のゆがみ、震源地の求め方、火事や津波などの地震関連災害など多くの部分は現代でも通じる内容です。
一方で、地震に伴う発光現象、地中電流などについても地震予知に使えるかもしれないと述べられていますが、いずれも現代では少なくとも予知には利用できなさそうな情勢です。
また、単位が一部尺貫法で記載されており、このあたりも時代を感じさせられます。

本書の津波に関する記載を引用します。
津波というものが、毎年一回位あるものだとすれば人々もその用心をするのであるが、何しろ何十年何百年に一回あるかないかというのであるから、まるでそんな考えがない所に突然やってきては猛威をたくましくするのである。
当時は昭和8年の三陸大津波の直後であり、津波への関心が高まっていた時期でした。
しかしそれから80年ほどを経て、日本人の津波への意識は必ずしも十分ではありませんでした。
私も子供のころに三陸大津波の話は聞いたことがあったのですが、今回の東日本の震災が来るまでは生きている間に大津波を目にすることがあるとは真剣には考えてませんでした。
「天災は忘れたころに…」とは言いますが、本書を読んでもまさにその通りだと思います。

本書の記載自体はそれほど難しくないのですが、一般には興味の薄い地震計の仕組みにかなり多くの分量を割いているのはやや不審ではあります。
昭和8年当時には確かに極めて重要な問題だったのでしょうが…。
本書を読み終わった翌日に私の住んでいる地域が震度5の地震に見舞われたのは、ひどい偶然だと思いました。
  1. 2018/06/20(水) 22:58:12|
  2. ★★★★
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未開封の包装史―――青果包装100年の歩み

おしゃれな装丁とは裏腹に、かなりマニアックな内容の本です。
青果のフィルム包装を主業とする株式会社精工の代表取締役会長による、精工と青果包装の歴史についての概説書です。
代表的な顧客であるサンキストやホクトの代表取締役や、青果包装の権威である香川大学の元教授との対談などもあり、オーソドックスな会社PR冊子の体裁を呈しています。
一方で、スーパーでよく目にするもののあまり注意を向けたことのない、野菜や果物の包装についての専門知識や時代による変遷についても述べられており、当然ながらどんな技術にもその独自の世界があるものだと感心させられます。

かつてはみかんなどは木箱に収納されて産地から小売店などに輸送されていました。
私は直接見たことがないのですが、昔の映画や漫画などではみかんの木箱を机として代用するような描写があったりもします。
その後、段ボール輸送が主流となり木箱を見ることはほとんどなくなりました。
一方で、店頭での陳列も時代により変化します。
かつてはスーパーなどでも青果はむき出しで陳列されていたのが、現在では多くはフィルム包装されて並ぶようになっています。
フィルム包装は青果の鮮度を保つことと、フィルム外装に産地などを印刷することでブランド力やトレーサビリティをアピールするという二つの意味を持っています。
精工では、段ボールは取り扱っていないので、フィルム包装についての記載が中心となっています。

かつては写真印刷の技術が発達しておらず、もっぱら洋画のような絵が印刷されていました。
たしかに、昔のパッケージを思い出すと、今のような写真ではなかったような気がします。
映画の看板が昔は職人による絵だったのと似ているのかもしれません。
そこから、フィルムへの写真印刷の技術が開発され、結露を防ぐための防曇フィルムが開発され、自動包装機が開発されというように、いくつかのブレークスルーを経て現在のような個包装がなされるようになったとのことです。

記述は平易ながらも、人によって内容に興味を持てる人ともてない人に分かれそうに思います。
(よその会社の歴史に全く興味を持てない人は、本書を読むのには向いていないかもしれません)
個人的には面白い本だと思いますが、きれいな外見に反してやや地味な内容ではあります。
  1. 2018/06/14(木) 00:01:03|
  2. ★★★★
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アンデスのリトゥーマ

緑の家」を読んだ人ならすぐにわかることなのですが、タイトルの「リトゥーマ」は「緑の家」の主要登場人物の一人です。
リトゥーマは、人生の一時期に故郷のピウラから離れて治安警備隊員として辺境の地に勤めていました。
本作は、リトゥーマが同僚と二人で鉱山町であるナッコスに赴任していた際に、3人の男の行方不明事件とかかわったことが述べられます。
海岸沿い出身のリトゥーマはナッコスでは完全なよそ者であり、現地人には何を尋ねてもろくな返事が返ってきません。
当時はセンデロルミノソによる反政府活動も活発で、危険極まりない環境のなかでリトゥーマは五里霧中の状態で手がかりを集めようとします。

「緑の家」の読者にとっては、リトゥーマは治安警備隊員として殉職することなく帰還することが既知であるため、多少のネタバレを包含した状態で読み進めることになります。
また、「緑の家」では長い期間の人々の人生そのものが描かれるのですが、本作は比較的短期間を扱ったミステリー的な内容であり、「緑の家」のスピンオフ作品のような印象を受けました。
「緑の家」の読者でなくても単体で楽しめる作品ではありますが、やはりファン向けの要素は非常に濃いと思います。

徐々に明らかになる真実、現地人と都会人の間の埋められぬ文化の差…。
時々挿入されるセンデロルミノソに虐殺される外国人のエピソードは、当地が都会的な常識では全く話が通じないことを思い知らされます。
(彼らはのんきなことに、反政府組織に害をなす目的の全くない善意の旅行者であるならゲリラとも「話せばわかる」と思いこんで、危険地帯に足を踏み入れて惨殺されるのです。)

「緑の家」や「世界終末戦争」ほどの重厚さはないのですが、それでも十分読み応えのある作品だと思います。
リョサの他の作品同様、一つの段落の中で次々に場面が変わることがあるので読むのにはやや心構えが必要です。
  1. 2018/06/10(日) 20:58:15|
  2. ★★★★
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ニューヨーク 都市居住の社会史

ニューヨークのマンハッタンは人生で数回行く機会があったのですが、あの場所は行ってみないとわからない不思議な力があると思います。
異常なほどに狭い道と高層ビルの組み合わせ。
「東京には空が無い」なんてことばもありますが、空のなさではマンハッタンの足元にも及びません。
これだけの超高密地帯において世界的に重要とされる施設が集中しているさまは、目がくらむような感覚を覚えました。
以前、都市の高密化を極限まで追い求めるべきだという「Hyper den-City」なる本を読んだのですが、確かに密度というものはある種の魅力を備えていると思います。
超高密都市に住みたいかどうかは別の問題ではあるのですが…。

本書は、主には19世紀初頭から1980年代くらいまでのニューヨークの都市変化について述べています。
ニューヨーク自体はマンハッタンだけでなく、ロングアイランドのクイーンズやブルックリンも含む地域を指しているので、必ずしもマンハッタンの超過密のみが扱われているわけではありません。
(スタテン島についてはあまり述べられていないような印象ですが。)
20世紀中盤までの大きな主な流れは、空調もエレベーターもない時代における極めて不愉快な低層建築から始まり、超高層化と同時に進行した建蔽率の低下にあるように見えます。
建物を上空に伸ばすことにより、わずかな土地にも多くの人間を収容できるようになり、かつては横行していた日照を妨げるような構造から解放されるというのは素晴らしい進化だったのだと思います。
一方で、「アメリカ大都市の死と生」でも述べられていたように、街が人間のスケールを越えてしまっために移動がすべて車となり、歩行者が消え去ることは治安の悪化につながります。
ニューヨークのかつてのスラム街は必ずしもこのような大きなスケールの町で起きたことではないのですが、それでも机上の模型では美しく統制が取れたように見える街も実際には道端はゴミだらけ、建物は崩壊しつつあり、犯罪の温床になるということにつながったように思います。

鹿島出版会の本は一般的に翻訳があまりよくなく、私のような素人が読むにはハードルが高いイメージがあります。
それでも本書は比較的読みやすい方だと感じました。
(巻末の索引が英語のままだというのはどうかと思いますが。)
とくに前半部分は図版も多くて、著者のいいたいことを理解する助けになります。
後半部分になると理論的な考察が増え、難度が増します。
内容は極めて充実しているのですが、それを享受するにはそれなりの努力を必要とする本だと思います。
  1. 2018/06/09(土) 22:06:46|
  2. ★★★★
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脂肪の塊・テリエ館

モーパッサンは全く読んだことがなく、本作も予備知識ゼロの状態で読み始めました。
まさか「脂肪の塊」が女性のあだ名で、かつこの女性は売れっ子?の娼婦だとは思いませんでした。
日本語で読むと「脂肪の塊」は悪口にしか聞こえないのですが、フランス語だともう少し愛嬌を含んだ単語なのでしょうか…。

いずれの話も、ストーリーは極めて単純です。
金持ち貴族や社会運動家、シスターなど、社会的な大義を飯の種として生きている人たちと、日陰で生きる娼婦との対比。
娼婦は社会的には下等なものとみなされながらも、必ずしも人間性が劣っているわけではないという、古典的といえば古典的な問題提起です。
同じフランスの作家でもゾラの「ルーゴン・マッカール叢書」に比べるとかなり完成度が落ちるようにも見えるのですが、本作のほうが数十年ほど時代が先だっていることからやむを得ないのでしょうか。

歴史的な価値はともかくとして、今の時代にどうしても読むものでもないようにも思いました。
翻訳が極めて時代がかっているというのもあるのですが…。


  1. 2018/06/09(土) 21:40:02|
  2. ★★★
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プルーストの部屋―『失われた時を求めて』を読む

当時、集英社からハードカバーで出版されたばかりであった「失われた時を求めて」の新訳版を読んだのは、10年くらい前だったと思います。
それ以前にちくま文庫版の、日本語として成立していないともいえるような翻訳で挫折した経験のある私は、集英社版のあまりの読みやすさに感動したものです。
高価なものだったので、一冊読み終わるたびに次の一冊…というふうに買い足していき、一年くらいかけて読み終わったのを覚えています。
意外だったのは、物語が後半に行くにつれてどんどん面白くなっていくことでした。
本作品で最も有名なのは、冒頭部分で語り手がマドレーヌを口にしたことをきっかけに子供時代を思い出すくだりなのですが、この続きについてはあまりよく知られていないように思います。
少年時代を脱した語り手が人生において出会う人々の移り変わり、とくに恋人であったアルベルチーヌの最期や憧れの貴族階級を象徴するシャルリュス男爵の行く末などは衝撃的でした。
日本語訳さえまともであれば、ストーリーとしては複雑なものではなく、むしろ読みやすい作品だと思います。
ちくま文庫版は30年以上にわたってほぼ唯一の本作品の邦訳として大きな役割を果たしたのでしょうが、無用に「難解」というイメージを広げてしまったことの悪影響は大きいと思います。

本書は、「失われた時を求めて」の解説書です。
「失われた時を求めて」においては、当時の建築や服装の流行についての知識が前提となっています。
たとえば、現代の日本人にとっては、「ボディコンスーツ」とか「ハウスマヌカン」といった単語だけからでも1980年代くらいの時代感覚を得ることができますが、本書ではコルセットやクリノリンを用いる第二帝政期のファッションが失われつつあるものとして描かれます。
しかも、「失われた時を求めて」の作中では50年近くの期間が経過するので、時期に応じて流行も変化します。
かつての貴族は経済的に没落し信仰のブルジョアが貴族の称号を得るために貴族と親戚になろうとしたり、電話や電報などの新しい技術が普及し始めたり…。
これら、当時の「時代感覚」について、「失われた時を求めて」の進行に沿って詳しく解説されています。
加えて、当時の政治的な状況や作中のちょっとしたエピソードが持つ意味など、内容は極めて充実しています。
図版など含めてとてもわかりやすく、著者がちくま文庫版を参照した(本書出版当時にはちくま文庫版しか存在しなかった)とはとても思えないような内容です。
久々に当時、原作を読んだ際のの衝撃を思い出しました。

私は先に原作に当たってから本書を読んだのですが、順番はどちらでもよいように思います。
原作を読まなくても本書単体で十分理解できる内容です。
  1. 2018/05/28(月) 22:43:34|
  2. ★★★★★
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日本の島々、昔と今。

紀ノ川」の有吉佐和子によるルポです。
この方は小説も見事だと思いましたが、こういったノンフィクションもとても読みやすいです。
「昔と今」というタイトルから、島の古老等に話を聞いて生活や環境の移り変わりについて述べられているのかと思っていたのですが、実際は郷土史のような話の割合が多かったです。
隠岐の部分では後鳥羽上皇などのエピソードが紹介されたり、対馬の部分では元寇が取り上げられたり…。
歴史に興味のうすい私には、ややミスマッチだったかもしれません。

尖閣諸島や北方領土、竹島などの領土紛争の舞台となっている島も紹介されています。
鄧小平が尖閣諸島について「我々の次の世代が解決するだろう」と発言しているのですが、今はまさにその「次の世代」または「次の次の世代」といってもよいでしょう。
領土問題は解決が簡単ではないということを、改めて考えさせられます。

今と違って島の宿の予約をインターネットで行うことはできず、離島などの僻地は「行ってみないとわからない」という時代でした。
実際、予約したはずの宿に全く連絡が行っておらず、船着き場で宿を探すなどということもあったようです。
相当に活動的な作家だったというのはよくわかります。
  1. 2018/05/14(月) 20:50:25|
  2. ★★★★
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ディープラーニングがわかる数学入門

以前読んだ「イラストで学ぶ ディープラーニング」がいまいちだったので、ほかによい本はないかと思い購入して見ました。
「Excelで体験できるディープラーニング」というのが売りのようですが、実際はExcel自体はおまけにすぎません。
また、本書を読んだだけでディープラーニングのソフトを使いこなすことも不可能です。
しかし、ディープラーニングの基本的な原理を知るには最適な本だと思います。

高校数学レベルの行列や漸化式等から始まり、畳み込みニューラルネットワークまでが順を追って解説されています。
後半はやや複雑ですが、ゆっくり理解しようと思って読めば理解できる内容だと思いました。
それでも完全文系の人が理解するには少し厳しい内容かもしれません。
畳み込みニューラルネットワークについては、何をやっているのかはおおよそ理解できたのですが、なぜこれで画像認識がうまくいくのかだけが少し腑に落ちないところが残りますが…。
これ以上理解しようと思うなら、実際にソフトを触って体験して見るしかないのかもしれません。
  1. 2018/05/10(木) 21:26:34|
  2. ★★★★★
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沼のほとり

古本屋で見つけて購入しました。
著者の中勘介が手賀沼のほとりに住んでいた頃について書いた表題作と、それ以前に上野寛永寺内に住んでいた頃の「孟宗の蔭」が収められています。
いずれも日記風の随筆なのですが、中には詩あり、短歌あり、夢についての記録ありで内容はばらばらです。
中勘介らしい美しい文体で日々がつづられます。

美しい自然と、暖かい日の昼寝、おいしいごはんなどについて肯定的な文章が並んだかと思うと、突然世間に対する絶望感に満ちた文章が現れて驚きます。
生涯にわたって文壇等と距離を置いた著者は、相当人づきあいが嫌いだったのかとも思います。
近所の子どもや家族は登場するのですが、ある特定の大人との濃密な関係を示す文章は全く現れません。
日記風と言いつつ突然数か月空いたり、または数日間隔で頻繁に記録がなされたりと頻度もバラバラです。
日記に記載されない、心の葛藤や本業への没頭の時期があったのかもしれません。
心の不安定さを感じさせられます。

内容は面白いのですが、昔の人らしく今ではほとんど見かけない感じが大量に使われているので、常に調べながら読み進めることになりました。
ベルベット、ヨハネ、ヤドカリなど…。
文庫版が戦後に発行されているので、よほどこだわりのある人以外はこちらで読んだほうが良いと思います。
  1. 2018/05/06(日) 15:51:02|
  2. ★★★
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革新都政史論

古本屋で見つけたものです。
「革新都政」とは、1967年から1979年まで美濃部亮吉が都知事を務めた期間を指して言います。
社会党と共産党による支持を受けて自民系の候補者を破って当選し、革新自治体の最盛期のもっとも大きな構成要素となりました。
本書の著者は共産党の赤旗編集委員を務めた人物であり、共産党側からの視点で革新都政と、その後の自民党を支持母体とする鈴木都政について述べています。

当時の共産党の基本的な立脚点であるマルクス主義は、ポパーのいう典型的な「歴史主義」です。
これは、「歴史主義の貧困」で強く批判されている考え方で、人間の歴史はある必然的な方向に向かって発展していくというものです。
本書にもこの考え方が浸透しており、
理論的にみても、革新自治体が住民の圧倒的大多数の要望に沿ったものであり、歴史的発展の法則とも合致する
だとか、
歴史の発展法則は明確であるが、ときとしてはまわり道をしたり、一次逆行するときもある。
革新都政の歩みもまさにそうで、七九年都知事選挙の結果、残念ながら自、公、民の反動候補が勝利し、革新都政はついに保守都政にとってかわられた。
という記載がなされています。
本書の記載の特徴は、革新都政(というより共産党の意図)に反する流れは理論的に間違っているので、そういうことが起きるのは「反動勢力」たる敵や、「日和見主義」である社会党のせいであり、決して自分たちが誤っているわけではないという考えに立っていることです。
自民党をはじめとする中道右派はここまでガチガチに理論で固まっていないために、よく言えば臨機応変、現実主義、悪く言えば節操がありません。
一方で本書の著者が所属していた頃の共産党は理論先行のため思想的に先鋭化しており、妥協点は存在せず、少しでも間違った点があればそれは共産党ではなく相手方が悪いということにならざるを得ません。

美濃部都政の末期には共産党と美濃部の意見対立が起きたのですが、これについては美濃部に全面的に非があることになっています。
また、鈴木都知事が10年以上も選挙で勝ち続けている(裏を返せば革新候補が支持を失った)理由については全く触れられていません。
美濃部都政では公営ギャンブル廃止と福祉の拡充により大幅な財政赤字に陥ったのですが、これは国からの補助金が足りないことが要因とされます。
社会党が共産党とたもとを分かったのは、当時の社会党書記長である江田が不純な思想を持ち込んだためだそうです。
全て自分が正しく、うまくいかないのは人のせいです。
反対勢力にはレッテル貼りを行ってから是々非々ではなく全面的な存在否定を行うというふるまいをみせます。

共産党の政策の良しあし以前に、ここまで自己正当化しかしていないアジ演説のような文章は正直言って読むに堪えないと思いました。
人間なのであとから見れば間違いだったと思えることもあってよいのですが、これに対する反省がなく、依って立つ理論が絶対的に正しいのだから自分たちが間違っているわけがないというのでは、会話が成り立たないというのが印象です。
  1. 2018/05/05(土) 18:58:11|
  2. ★★
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