雑記+ブックレビュー

書評というほどのものはありません。読んだ本に絡めて、日々思うことなどを書いていこうと思います。

わが魂を聖地に埋めよ―アメリカ・インディアン闘争史

こちらも古本屋さんで見つけた本です。
南北戦争周辺のアメリカの歴史や、先住民と侵入者(主に白人)の闘争史などに興味があり、いろんな本を探していたのですが新刊書ではあまり見つかりませんでした。
本書は私の個人的な興味にはぴったり合うものです。

日本でもかつては今ほど差別発言に対して厳しくありませんでした。
そのため、カルピスのマークが黒人であったり、天才バカボンで片言の中国人を馬鹿にするような箇所があったりしたものですが、これらと類似の表現としてステレオタイプなインディアンというものがありました。
「インディアン、ウソツカナイ」と片言でしゃべり、口に手を当てて「アワワワワワ」と言いながら襲い掛かる、頭に羽根飾りを身に着けた集団。
私も子供のころ真似をして遊んだ覚えがあります。

あれからこのステレオタイプについて深く考えたことがなかったのですが、本書を読むといろいろと理解できることがありました。
「インディアン、ウソツカナイ」という発言の裏には、「白人は嘘ばっかりつく」というインディアン側の主張があったのです。
一方的にやってきた白人たちは、インディアンたちに土地の使用権を貸与するよう迫り、交渉の末彼らと無数の条約を結びました。
しかし、白人の民間の鉱山師たちは条約を無視して無断でインディアンの土地に入り込み、彼らの生活を妨げます。
さらに白人の軍隊は鉱山師たちの侵入を防止する手立てをとるどころか、現状を追認してインディアンに次々と新たな土地分与を要求し、拒否したインディアンに対しては「暴力を振るった」という名目で逮捕や戦闘行為に及びました。
なし崩し的にインディアンの土地は削られて行き、同時にインディアンたち自身も虐殺や戦闘行為により数を減らし、ついにはほぼ絶滅してしまったのです。

最近、アメリカでは南軍のリー将軍が人種差別主義者だったとして、その銅像を撤去するべきだと主張する運動が盛んです。
しかし、インディアン討伐を積極的に推し進めたのは、南北戦争で勝利した北軍のグラント将軍であり、その言動はどうひいき目に見ても人種差別的であったといえます。
結局のところ、現在のアメリカ国家自体は過去の白人による略奪を基礎として成り立っており、これはリー将軍とかグラント将軍といった限られた人物の責任ではなかったということなのでしょう。

初版発行が1972年、原書の発行が1970年とかなり古い本ですが、内容は全く古さを感じさせません。
読みやすくて内容の濃い、とても面白い本だと思います。
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  1. 2017/09/24(日) 20:56:19|
  2. ★★★★★
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絶滅された世代―あるソヴィエト・スパイの生と死

古本屋さんで見つけた本です。
本書の著者エリザベート・ポレツキーは、ソ連のスパイ活動に従事しながらも最後にはスターリンにより暗殺されたイグナス・ライス(通称ルードヴィク)の妻です。
本書では、スターリン登場後にいかにして当初の共産主義の理想が崩れ去り、「大粛清」により多くの人が消え去ってしまったかが描かれています。
スターリン時代のソ連における「大粛清」については「人生と運命」でも読んだことがありますが、いつ官憲に言いがかりをつけられるかわからずに生きるというのは想像を絶する状態だと思います。
私は5年ほど前に一度だけロシアに行ったことがあるのですが、街中を軍人が歩き回っているのを見るだけで非常に恐ろしかったのを思い出します。
日本の自衛隊と違って、「市民に愛される軍隊」というような姿勢は全く見られないような国柄だったので…。

有名な3度のモスクワ裁判による粛清以外にも、非公式な暗殺が大規模に行われました。
本書の大量の訳注では登場人物の解説がなされているのですが、その多くはかつてのソ連政府要人だったにもかかわらず粛清により命を失った人々です。
NKVDの長官であったエジョフをはじめとして、ヤゴーダ、メッシングなどは、粛清への貢献ののちに自らも粛清されました。
また、ナチスによる粛清を逃れるためにソ連に亡命した人々の多くも、スターリンによる粛清を免れることができません。
暴力を振るう側と振るわれる側が目まぐるしく入れ替わる状況は想像もつきません。

以前にも同じことを書いたような気がするのですが、スターリンが用いた「政敵にレッテルを貼ってそのすべてを否定する」手段は現代でもよく見られます。
これの恐ろしいところは、実行している当人たちは悪気があってやっているのではなく、正義感に基づいてやっているところです。
かつての新左翼ではこのようなレッテル貼りにより、意見が異なる人を内ゲバで殺してしまうこともありました。
人が人を嫌いすぎると、少し常軌を逸してしまうのではないかと思います。

本書は面白いのですが、少し翻訳がこなれていなくて読みづらいです。
また登場人物も多くて整理しながら読む必要があります。
それでも、真剣にじっくり読めば当時の恐ろしい状況を肌で感じることができるように思います。
参考文献に記されている、粛清されたブハーリンの妻による手記「夫ブハーリンの想い出」や、イグナス・ライスの同僚で米国に亡命したクリヴィツキーによる「スターリン時代」も読んでみようと思います。
  1. 2017/09/17(日) 19:01:19|
  2. ★★★★
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ゲーマーズ!

生徒会の一存シリーズ」の葵せきなの作品です。
すでに完結していると思ってシリーズを全巻購入したのですが、まだ完結していなかったのは大失敗でした。
今後、完結後にまた追記します。

本来は地味で友達のほとんどいない男子高校生が、あるきっかけで複数の女子生徒から好意を持たれるようになるというよくあるラブコメです。
男友達とその彼女、そして友人女子の妹も交えた複雑な人間関係が、勘違いの連鎖でさらに混乱していきます。
最も驚異的なのは主人公の地味男子高校生の、異常なほどの善良さです。
他人が困っているとあれば何をおいても駆けつけ、友人が馬鹿にされたら前後の見境なく怒り出し、他人の幸せを心から願う。
現実では絶対にあり得ないような人がらです。

さすがにちょっと都合が良すぎて、読んでいて少し勢いがそがれることが多かったです。
最後まで読むと印象が変わるのかもしれません。
今般アニメ化されるそうですが、挿絵に描かれた登場人物の姿が私には男性と女性という以外は全く見わけがつきませんでした。
唯一の判断ポイントは髪の色くらいでしょうか。
あだち充作品でもアニメ化しているので、そのあたりは問題ないのでしょうが…。
  1. 2017/09/16(土) 21:45:43|
  2. ★★★
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むらの日本人―′70年代・東北農民の生き方

40年以上前に出版された本です。
古本屋さんで見つけて購入したのですが、巻末に「日本列島その現実」シリーズの広告が掲載されていてなるほどと思いました。
確かに着眼点としては似ています。

高度経済成長が終わり、農村にも貨幣経済の波が押し寄せてきたころの日本の農村の記録です。
当時は兼業農家、それも農業収入よりもそれ以外の収入のほうが多い第2種兼業農家が顕著に増加しており、これに伴って農村部における平日昼間人口が減少しました。
かつては農村における会合や共同作業には一家の当主たる夫が参加していたものなのですが、その当人が出稼ぎや日帰りの賃労働などによって不在となったため、急速に集落内のつながりが衰退しつつあったようです。
もともとはその家の持つ耕地面積がそのまま経済力、集落内での権威につながっていたのですが、兼業が一般化するにつれて中途半端に広い耕地はむしろ兼業の妨げになってしまうため、「五反百姓」などと言って蔑まれてきた零細農家のほうが身軽で裕福になるという逆転現象も発生しました。
いろいろな意味において旧来の秩序が崩壊しつつあったようです。

本書が出版された当時でも「若い人が出ていく」ことが問題視されていますが、彼らは完全に村から出ていったわけではありません。
若者たちはふるさとを捨ててしまったのではない。
出かせぎ者は、盆正月や農繁期には帰ってくる。
日かせぎの青年たちはサラリーマン並みに毎晩帰宅する。
ここでいう「日かせぎ」とは、通いで土木現場などの賃労働に従事することを指します。
現在ではそもそも若者は農村から遠く離れた都会に完全に住まいを移してしまうので、さらに状況が一歩進んだということになるのでしょう。

従来型の農村秩序は、ある地主が存在してその地主の権威は代が変わっても永続します。
また、家同士の付き合いも長く続くことが想定されており、恩の売りあい、返しあいが延々と続くことになります。
このような共同体においては、メンバーが去ることは可能なのですが、新たによそ者が加わることは本質的に困難な状態です。
そして、これはいまだに続いていると思います。
新参者にとって窮屈な村社会に新たに加わるメリットは少ないため、なすすべもなく過疎化が進行してしまったということでしょう。
あと数世代もすればこのような過去の風習の影響もなくなるのでしょうが…。

当時のムラ社会の特徴がコンパクトにまとまっていて読みやすいです。
最後のほうに若手農家の座談会が掲載されているのですが、最も若い参加者でもまだ存命なら75歳。
彼らは現状についてどう思うかが気になります。
  1. 2017/08/27(日) 22:37:09|
  2. ★★★★★
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文明としてのツーリズム―歩く・見る・聞く、そして考える

観光について書かれた本はいくつか読んできましたが、「観光の空間」や「観光のまなざし」のように内容の深いものと、「緑・砂・人」のような単なる旅日記にしか見えないものとの両極端に分かれるような気がします。
これは、観光地に視察に行った結果、著者の過去の何らかの知見と結びついてしっかりと得るものがあった場合と、観光地に行って普通に観光旅行をしてきただけというものの差なのかもしれません。
その意味においては、本書は残念ながら後者に近いです。

本書の「はじめに」では、下記のように著者が紹介されています。
石森修三は、日本でいちばんはじめに観光学(カンコロジア)を提唱しました。
文化人類学的な研究実績だけでなく、観光行政にも大いに関与しています。
高田公理は、社会学の立場から旅や観光を考えてきました。
とくに、情報文明論への展開を試みてきました。
また、神崎宣武は、民俗学の立場から日本人における旅や観光を考えてきました。
しかし残念ながら、私の感じたところでは本書は特にそれらの専門的な視点が活かされたものには見えません。
または、新しそうな理論が提唱されたりしているのですが、これらは検証が全く足りず、説得力のない単なる思い付きのようにしか見えないと思います。
本当に「日本でいちばんはじめに」提唱したのであれば、全く未開の領域に踏み込んだために完成度が低くなってしまったのはやむを得ないのかもしれませんが、それにしても参考文献がほとんど日本語の似たようなものばかりというのはどうかと思います。
現地に行く前の準備、勉強が足りていないのではないでしょうか。

本書の大部分を閉めるのは、三人で一緒に行ったサイパン旅行と海南島、スマトラ島の旅行の記録です。
三人で一緒に行って一緒のものを見たので、当然のことながら別々の著者によって一緒のことが書かれています。
みんなで行って多角的な視点を持つことが重要なのかもしれませんが、慰安旅行に行った後の社内報記事に近いような文章を読んでいると、本当になにか意味があったのか疑問に思ってしまいました。
  1. 2017/08/27(日) 00:10:56|
  2. ★★
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アメリカは食べる。――アメリカ食文化の謎をめぐる旅

古本屋で見つけて購入したものです。
私は、アメリカは2回、東海岸にそれぞれ一週間ずつ行ったことがあるだけなのでアメリカの食というものに対する経験はほとんどゼロに近い状態です。
同行の人はアメリカといえばステーキという印象が強かったようで、その2回ともステーキを食べに行ったのですが、個人的にはステーキはとてもおいしいとは思えませんでした。
一口食べるだけならよいのですが、それ以上だとすぐに味に飽きてしまうのです。
一方で、私が食べた魚料理やカニなどはとてもおいしく、アメリカ=大雑把というのも間違っているのだなと思った記憶があります。

本書は見た目が会社四季報のような分厚さを持っているのですが、その内容も単に食べ物にとどまらず、アメリカの文化にまで深く切り込んでいて重層的です。
著者のもともとの専門は音楽にあったようなのですが、そのためかアメリカの歌謡曲がしばしば引用されており、それでもってアメリカ人の文化的背景を説明しています。
私にとっては東海岸も西海岸も中部もハワイもあまり違いがよくわからないのですが、著者はそれぞれの地域に住みついた民族グループから説き起こして、それぞれの「お国料理」やその意義が解説されています。

前半はイギリス系、スペイン系、フランス系、黒人…などといった各民族集団由来の食べ物が紹介されています。
そして基本的にはどれもおいしい食べ物が主に取り扱われており、ここだけを見るとアメリカの食と文化の礼賛のように見えます。
しかし、後半になると一転してやや沈んだ雰囲気になります。
アメリカの食は、それぞれの民族集団が故郷の料理を、材料が十分に入手できない中で何とか再現しようとしてきた結果であり、
誰もが、自分の国を捨てて作り上げたアメリカ料理だからこそ、そこに望郷の思いが隠されている。
そうなのだな、アメリカの食をコーティングしているのは、あるいは隠し調味料はホームシックという気分だアメリカ料理にノスタルジーを感じてしまうぼくには、そう思えて仕方がない。
と述べられます。
アメリカのノスタルジーについては正直言って私にもよくわからないのですが、アメリカの「日常の」食べ物が全体的に彩りがないのは感じます。
または、食べていて寂しい気持ちになります。
おいしい、おいしくないというのとは別の感情です。
私がアメリカでは異邦人だからにすぎないのかもしれませんが…。

  1. 2017/08/21(月) 23:37:45|
  2. ★★★★★
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化粧

中上健次は「未完の平成文学史」で知ってから興味を持っていました。
これによると中上健次はフォークナーに影響を受けて、自身の出身地である紀州熊野地方を舞台とした作品を多数執筆し、独特の世界観を作り上げているとのことです。
ちょうど古本屋さんで中上健次の本を見つけたので、ためしに購入してみたものです。

15作品が収められた短編集なのですが、確かにどれも紀州熊野地方を舞台としており、世界観は似通っています。
世界観だけでなく、登場人物もほとんどの作品で重なり合っています。
  • 主人公
    紀州熊野の出身だがその後上京。
    両親は離婚して母親に育てられた。
    大男で柔道や相撲の経験あり。
    結婚して二人の子供が産まれるが、酒を飲んで家庭内暴力をふるうことを繰り返したため、一週間の旅行(または出張)中に妻と子供に逃げられる。
    その後仲人のとりなしで、後述の兄の法事の際に家族と再会。
    鳥を100羽単位で飼っていたが、妻に逃げられたのちにすべて逃がしている。

  • 24歳の3月3日に首をつって自殺。
    少年のころは利発であったが、その後麻薬中毒によると思われる幻覚に苦しむ。

  • 頑強であったが50歳のころに心筋梗塞で倒れてから床がちになる。
  • 友人
    熊野で商売を営み成功しているが、最愛の妻に先立たれている。
主人公のモデルは著者であり、かつ周囲の人物もすべて実在のモデルが存在したと思われます。
基本的には上記のエピソード+αが繰り返し述べられるという印象です。
とくに、主人公の勝手な酒乱の言い訳が多く、このあたりに共感できるか嫌悪感を覚えるかにより本書を楽しめるかどうかが変わるように思います。
私には相性が悪い本でした。

また、著者の日本語の癖として、主語を省略して文章を書くことが多くて解読に苦労しました。
「男」と「彼」がまったく別人を指しているなどの独特の使い分けなどもあります。
高校のころの国語の試験でやや難解な文章の意味を問うものがありましたが、この類のものを思い出しました。
幻想的な雰囲気で夢と現を行ったり来たりする効果があるわけでもなく、著者が単に日本語に無頓着なような印象を受けます。
代表作である「」「枯木灘」「地の果て 至上の時」の三部作を読んだほうがよかったのかもしれません。
  1. 2017/08/16(水) 23:02:46|
  2. ★★★
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自然界における左と右

本書は一般向けの科学書としてはかなり有名な古典だと思います。
著者のマーティン・ガードナーについては数学マジックや数学パズル関連の本しか読んだことがなかったので、古本屋さんで見つけて一度読んでみようと購入しました。

まず一読して全体の構成が見事だと思いました。
一般的な対称性の話から始まり、結晶構造の話で自然界が基本的には対称構造をもとに構成されていることを解説します。
ここで一転してDNAの二重らせん構造や酒石酸のキラリティを用いて生物界での対称性の破れを示し、最後には(当時としては)最新の素粒子理論では無生物でも対称ではないことを説明します。
単に対称性についてのコラムを集めたようなものではなく、全体として一つの話が流れるように綿密に計算された内容です。

一方で、素粒子論のあたりになってくると「宇宙の統一理論を求めて」と同じような苦しさを感じました。
素粒子論は直感的に理解することは実質的に不可能であり、かなり複雑な数式を用いなければほんの少しでも説明することができないのです。
しかし、そのような内容を数式を用いずに無理に説明しようとするために、結局は専門用語の羅列になり「○○というものがある」というだけの文章になるため、読む側としてはいったい何が言いたいのかわからないという状態に陥ります。
本書でも「奇妙さ」「真素」「μ中間子」などといった単語が特に定義されずに突然現れるので、「そういうものがあるのか」以外の感想が浮かばずに読み進めるしかない状態です。
私自身の考えでは、このような素粒子を簡単に説明しようという努力自体が無駄だと思うのですが…。

本筋とは関係ありませんが、著者はDNAのような複雑な構造を持つ化合物であっても、長い時間と適切な環境さえあれば自然発生すると考えています。
これは、いわゆる「有機物スープ」からDNAが自然に生成することで生命が誕生したということを意味します。
一方で、かなり昔に読んだ「遺伝的乗っ取り」ではこのような考え方は否定しており、DNAではなく初期の生物においては無機物(鉱物)が複製されることで種の保存がなされていたという説が取られています。
このあたりの妥当性は私には判断できませんが、定説としてはどちらが優勢なのかがやや気になりました。

50年近く前の翻訳だけあって、日本語は読みづらいです。
そろそろどなたか新訳出してもよいころだと思いますが…。
  1. 2017/08/15(火) 23:48:01|
  2. ★★★★
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バイーア・ブラック―ブラジルの中のアフリカを探して

ブラジルのバイーア州サルヴァドールは、16世紀から200年以上にわたってブラジルの首都機能を果たしてきました。
そのため、当時盛んであった奴隷貿易によりアフリカから大量の奴隷が運ばれてきた土地でもあります。
ポルトガル当局はアフリカの土着の宗教を禁止したのですが、奴隷たちは巧みにカトリックとアフリカ宗教とを混交させて、あらたなブラジル特有の宗教を作り出しました。
本書では、カーニヴァルをはじめとした西欧由来の風習と、アフリカの中でも特にヨルバ族由来の文化が混ざり合ったさまを、現地取材した記録が収められています。

著者の本業は写真家だけあって、巻頭に収められているカラー写真はとても美しいです。
とくにポンフィン教会の前で行われるお祭りの写真は見事だと思いました。
ポンフィン教会はカトリックなので、本来はアフリカ由来の宗教行事を行うことはできません。
しかし、奴隷の子孫たちはヨルバの神様にささげる祭りを教会の前で大々的に行います。
黒人女性たちが真っ白な服と白い花を持って集まるさまは本当に活気を感じさせられます。

一方で、文章のほうは個人的には少し読みづらく感じます。
一昔前のグラフ誌によくある、やや砕けた口語体なのですがあまり長い文章には向いていないように思いました。
うまく文体を説明できないので、一部引用します。
一人のおじさんが私に「鞄に気をつけろ」という仕草をする。
ウンウン、と軽く頷く私に、外国人の私は理解していないのか、というようにおじさんは時計をかっぱらう仕草をしてみせて、もう一度しつこく私に注意を促す。
親切なのだ。
ああ、だけどもう止めて、分かっているから、私だって気をつけなければいけないことぐらい。
私はサルバドールの人々がどんな気持ちかも一応知っているつもりだ。
彼らは被害に遭うのを恐れている。
誰だってそうだ。
私だって遭いたくない。
だけど、いつも彼ら子供たちをそんな目で見るなんて、やっぱり失礼じゃない?
彼らも子供なのよ。
時には無邪気に遊びたいでしょ。
誰かに甘えたかったり、恵まれた気持ちのいい生活をしたいって切望しているんじゃない?
「一昔前のグラフ誌」とかきましたが、実際本書が出版されたのは1997年なので「一昔前」の文体なのはやむを得ないところです。
しかしそれでも私には相性が悪く、読み進めるのに多少の苦労を要しました。
また、途中でヨルバの神話に関する解説もあったりするのですが、こちらも文章がやや散漫なために少しわかりづらいです。
写真が主で文章が従となるような本のほうが著者には向いているように思います。
  1. 2017/08/14(月) 23:07:23|
  2. ★★★
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自然景観の謎

世界各地でみられるさまざまな陸地の地形について、その成り立ちをビジュアルに解説したものです。
地理や地学の教科書で見た内容に近い部分が多いです。
本書はイギリスで作られたもののようで、地形の例として紹介されている場所の多くはイギリスです。
一部、渓谷などはアメリカが紹介されていますが、アジアが例として出されていることはほとんどありません。
この理由として土地の上に植生があると地形が良く見えずに例として不適当だというのもあるのでしょうが、紹介されている地名がわれわれにはあまりなじみがなくややピンと来づらいかもしれません。

学術的に厳密な紹介をすることよりも美しいカラー図や写真で珍しい地形を紹介することのほうに重点を置いているため、中学生くらい向けの絵本のような印象を受けました。
扇状地、三角州、河岸段丘、海岸段丘、自然堤防などといったよく見られる地形も紹介されているのですが、むしろメサ、氷堆丘、カルスト台地といった珍しい地形の解説の割合が高いように思います。
また、2ページ単位での解説を基本としており、かつそのうちの半分以上は絵や写真が占めているので、それほど詳しい内容については知ることはできないでしょう。

「高地のランドスケープ」「低地のランドスケープ」「海岸のランドスケープ」等の章に分かれているのですが、今自分がどこの章にいるのかがとても分かりづらく、かつそれぞれの章の分かれ目も明示されません。
そのため、突然「イントロダクション」なるタイトルのページが現れて、読みなれないうちは何のイントロなのかよくわからないという状態でした。
また、絵はきれいなのですが多くは2次元的な断面図なので、とくに堆積と浸食が同時に発生するような複雑な地形では何が起きているのかわかりづらいところもあります。
あと細かい話なのですが、本自体の強度が低いのでページをいっぱいに開くと脱落しやすいです。
写真や絵の見た目のきれいさに力が入っているわりにはその他の部分はややおざなりな印象です。
  1. 2017/08/13(日) 23:18:42|
  2. ★★★
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不屈の青春―ある共産党員の記録

戦前に当局の弾圧で若くして亡くなった無名の共産党員たち10人について取材を行い、その生い立ちや活動を記録に残したものです。
1969年に発行されたものでもちろん現在は絶版状態です。
古本屋さんで見つけて購入しました。

素直に読むと、当時の青年活動家たちの清廉でひたむきな様子が伝わってくる本です。
共産党員たちへの弾圧が厳しかった中でも己の信念を曲げず、拷問にも決して口を割らなかったという超人的な忍耐が礼賛されています。
悲惨な労働条件にあった男女工員の待遇改善のために、勇気と知恵とともに主導した戦いに勝利したことは、彼らにとっては素晴らしかったのだと思います。
また、翼賛体制下で日本にとって都合のよいニュースしか伝えられなかった中でも、鋭くも日本の帝国主義が敗北することを察知していました。
彼らはみな獄中の過酷な扱いがもとで結核などの病気にかかり、20代や30代で亡くなってしまったのは気の毒なことです。

しかし、よく読むと、本書の文中で共産党員のなかでも「○○同志」とか「○○氏」などという呼び方をされている人物と、そのまま名前を呼び捨てにされている人物の二種類が存在することに気づきます。
「同志」や「氏」といった敬称がついている人々は本書執筆当時でもまだ共産党の中で名誉を保っている人物で、呼び捨てにされた人々は当局に逮捕された後転向したり、または思想的に共産党本流と対立して「極左冒険主義」等のレッテルを貼られて追い出された人物です。
そして、共産党活動の中でも不都合な事柄は、これらのすでに党から名誉を失われた人々に責任を押し付けてしまい、現時点で党にいる人々には全く責任がないというような書き方がされています。
言い方を変えると、何か不都合が起きた際にはスケープゴートを仕立ててその人物を失脚させて追い出し、残った人々は無謬であるという論理構成となっています。
(現在の日本の政治家たちが、失言などで罷免されたのちでも再び役職に就く「敗者復活」があるのとは対称的です。)
これはまさに現代の抑圧体制国家で実践されているのとまったく同じ考え方ですし、かつてソ連等でも同様なことが起きていました。
現在役職についている人は無謬なので、過去の問題に対しては知らぬ存ぜぬを通すのです。
これはかつての大日本帝国のファシズムとまったく同じであり、似た者同士が戦っていたようにしか見えません。
共産主義自体がソ連から輸入されたものである以上、性格が似てくるのはやむを得ないのかもしれませんが…。

彼らが極端な貧困に耐えて活動していたというのは本当だと思いますし、それは正義感に基づいたものであったというのも本当だと思います。
しかし、少しでも広い視野を持った者が疑問を呈したとたんにレッテルづけとともに追い出されるというのを繰り返した結果、狂信的な集団に成り下がってしまったのでしょう。
新左翼などもまったく同じ道を歩みましたが、一部の新左翼と共産党が対立していたというのも似た者同士の戦いに見えます。
このような状況下で共産党が一般民衆の支持を長らく獲得できなかったのは当然かと思いました。
個人的には、現代の共産党が必ずしもこのような状況であるとは思わないのですが、過去の闇に対して真摯に向き合っているようにも見えないです。
  1. 2017/08/12(土) 23:21:51|
  2. ★★★★
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ハイランドの政略結婚

人生で読んだことのないタイプの本を読んでみようと思い、本屋さんで物色したものです。
著者のマヤ・バンクスの作品は大量に邦訳されているのですが、すべてかなり短期間で絶版扱いになってしまっているようです。
いろんな本を次々に少量ずつ出版していくというビジネスモデルなのでしょう。
読者数は限られているものの、ある一定数が確実に売れるということを示しているように思います。

舞台は13世紀のイングランド。
対立する二つのクラン(氏族)を和解させるために、王は両家の領主同士で婚姻関係を結ぶよう命じます。
大雑把には、当初は当事者同士も気が進まなかったものの、実際にあってみると途端に恋に落ちて障害を乗り越える、という筋書きです。
いくつかの障害のうちの一つが、妻のがわの身体的な問題です。
彼女は耳が聞こえず、かつ自分自身を意図的に頭が悪いように見せるために長年一言も発しませんでした。
これについては妻のクランの人間も気づいていなかったのですが、夫のほうが最初に見破り理解を深めていきます。
いくつか事件は発生しつつも、ついには両家が仲直りするに至るさまは、まさに王道という印象です。

途中、やけに性描写が詳細な場面があったのですが、これもやはり定番なのでしょうか。
読者層の要望にしっかりと応えた、安定した分野だと感じました。
ひとつだけよくわからないのが、本書のシリーズ名である「マグノリアロマンス」です。
イギリスではモクレンが象徴的な花なのでしょうか…。
  1. 2017/08/05(土) 10:07:43|
  2. ★★★★
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ゼロの使い魔

2004年に第一巻が発売されたライトノベルシリーズです。
残り2巻で完結というところで2013年に著者が死去したのですが、残されたプロットを用いて他の作家が後を引きついて5年越しに完結編が発行されました。
今回は1巻から22巻までを一気に読んでみました。

異世界転生に中世の世界観、剣と魔法、そして一人の男性キャラが複数の女性キャラからモテるという、ある種の定番全部乗せといったイメージの作品です。
まいどまいどもうちょっとで主人公が死んでしまうというところからギリギリで生き残る展開はまさに王道。
ただ、本作が最初に登場した2004年には今ほど異世界転生設定はありふれたものではなかったのでしょうか。

15巻くらいまではほぼ1巻完結の内容だったのですが、そこから物語が佳境に入るにつれて各巻の終わりに次巻への「引き」が入るようになりました。
1巻ずつ発売されると同時に読む分にはいいのかもしれませんが、さすがにこれだけの量を読んでいて「引き」が続くと少し疲れてきます。
個人的には前半の1巻ずつ完結するスタイルのほうが好みです。
また、最後の2巻は著者が変わったせいもあるのでしょうが、さすがに広げた風呂敷の多々見方が雑なように思いました。
物語後半で登場した殺し屋4兄弟は、最後の最後に「実は彼らの正体は○○であった」と大急ぎの説明があっただけです。
どうしてもこのあたり、無理が生じるのはやむを得ないところですが。

それでも本当によく完結したものだと思います。
著者が亡くなってから遺されたプロットをもとにした続刊の刊行が発表されるまで2年、そこから最終巻が刊行されるまでさらに2年、それだけまたされても本作の最終巻が売れたというのは、やはり人気のある作品だったということなのでしょう。
  1. 2017/08/01(火) 20:55:53|
  2. ★★★★
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福島原発事故と複合リスク・ガバナンス

大震災に学ぶ社会科学」シリーズです。
タイトルを見ると福島原発事故に関する内容だけなのかと思ったのですが、「福島原発事故」「複合リスク・ガバナンス」が等価に並んでおり、本書の後半は福島原発とはあまり関係のない話でした。
それなので購入した時の期待とは違った内容だったのですが、むしろ後半部分のほうが面白いと思います。

本書の「複合リスク・ガバナンス」においては、「食品中の放射性物質」「医療対応」「交通システム」「金融」の4つが紹介されていました。
特に厳しい状況だったように思えるのが、食品中の放射性物質の問題です。
放射線に汚染された食品の流通を速やかに規制する必要がありながらも、その安全の閾値については科学的にも不明な点が多く、判断が非常に難しかったようです。
震災直後にはいくつかの関係機関の発表した内容が矛盾していたり、いったん発表された規制内容に対する反対があったりで混乱が発生しましたがこれはやむを得ないことなのかもしれません。
他の問題と違って過去の経験による蓄積もなかったわりには、まだうまく問題を対処できた方でしょう。

個人的には放射線はある種の人々にとっては宗教的な「穢れ」と似たような反応を引き起こしているように思います。
確かに子供への放射線被ばくはできるだけ避けるべきものなのですが、そうでなくても、被ばく量が自然界の放射線と似たような値であったり、または発症よりも先に寿命が来るであろうと思われる高齢者への被ばくであっても拒否反応が強いことにたいして、科学者たちの反応はあまりよくなかったように思います。
「穢れ」への反応と同じように感情的には受け入れがたいものに対し、科学的な説明を繰り返すことにはあまり意味がないからです。
このような状況下で放射線許容量の閾値を定めることは、極めて難しい問題だったと想像します。
一方、交通システムの復旧や金融関連については、過去の災害時の経験を活かして見事な対応がなされました。
災害は多種多様であり、災害が起こるたびにその対応に対して新たな課題が発生してしまうものですが、そのような中でも着実に行政の対応は改善しているように思います。
経験を積む機会がないことが本当は望ましいのでしょうが…。

前半部の福島原発事故に関する部分は、同じ章内でも節によって著者がバラバラになっています。
しかも、同じ著者が別の章の節も執筆していたりするため、全体の統一感が全くありません。
百科事典の細切れの記事を読まされているような印象を受けました。
福島原発に関連する各関係機関の連携不足を厳しく糾弾する文章が目につきますが、その割には本書の著者間での連携があまりちゃんと行われず、妥協の産物として等量の文章をバラバラに割り振ったように見えるのはどうかと思います。
もうちょっと何とかならなかったのでしょうか…。

  1. 2017/07/24(月) 00:54:19|
  2. ★★★
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吾輩は猫である

前回読んだのは2013年ですが、この時のメモを見てみると読むのに苦労したようでした。
今回読んだバージョンは注が非常に充実していたせいか、それほど読みづらいとは感じませんでした。
ところどころ挿入されるオチのないひどい小話に対する耐性がついたのかもしれません。

改めて読むと、主人公の苦沙弥先生のとんでもないウザさが印象的でした。
冒頭のあたり、奥さんがお出かけに連れていってほしいとお願いしたのに対し、(ほぼ確実に)仮病を言い訳にしてそれを断った話は強烈です。
しかもそれを得意げに友人に話すというのは、そのウザさを全く自覚できていないということでもあり、これがまたさらにひどいです。
また、元ネタを知らないことが明白な人に対して理解できないジョークを飛ばすシーンもひどいです。

苦沙弥先生の邸宅である「臥竜窟」での無為な時間は一見するといつまでも続くように見えますが、思いのほかもろいような気もします。
主要メンバーの一人である寒月さんは最後に結婚しました。
それ以外のメンバーもいつどのような形で生活サイクルが変わるかもわかりません。
藤子不二雄や赤塚不二夫の「トキワ荘」や椎名誠の「克美荘」も、その最盛期には人を引き付ける「場」の力に満ちていましたが、いつかはその「場」も衰退して青春の思い出となります。
同じように、このメンバーたちもそのうち解散してしまうように見えます。
そう考えてみると、この「吾輩は猫である」もおっさんの遅れてきた青春小説なのかもしれないとも思えるし、最後に猫が亡くなる直前にみんなが帰って「寄席がはねたあとのように」寂しくなった座敷は、青春の「場」の名残のようだなと思います。

登場人物たちの話を真面目に読む(聞く)ことをあきらめると、とたんに読みやすくなるように思います。
深く読もうとするといくらでも深く読めるのでしょうが、私のような一般の読者は「それなり」で十分なのかもしれません。
  1. 2017/07/23(日) 23:36:37|
  2. ★★★★
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アメリカ大都市の死と生

Hyper den-City」や「都市は人類最高の発明である」で参考文献として挙げられていたものです。
この種の都市礼賛本を読んだ限りにおいては、どうやら本書がいわゆる「基本文献」的なもののようだと考え、一度読んでみることにしました。
ある種の分野においては、まず最初にこのような「基本文献」が発表されて、そこから爆発的に関連する議論が深まるということが起きるようです。
観光のまなざし」とか「災害の襲うとき」のような本がその例で、これらの本はどれもそれなりに難解なことが多いです。
一方、本書はどちらかといえば一般書と言っていいくらいの平易な内容です。
しかしながら書かれている内容については、とても説得力が強いように感じました。

本書の主張の核心部分は、「街には十分な数の歩行者がいなくてはならない」というところにあります。
歩行者がいないということは人の目が届かないことを意味しており、治安の悪化、街路の荒廃につながるからです。
そして、過去に街づくりの理想として議論された田園都市や、または計画都市などはその方向性からは全く真逆のところにあります。
巨大で整然とした公園や広場、広大な自動車用道路、圧倒的なモニュメントなどはすべて治安悪化と荒廃の要因となりやすいものです。
そのため、著者はごちゃごちゃした狭い町、エントロピーに満ちあふれた町こそが理想であると主張します。
このような理想を実現するためには、下記4つの要素が必要です。
  1. 地区内のできるだけ多くの部分が複数の主要機能を果たさなくてはならない。
  2. 街区は短くなくてはならない。
  3. 古さや条件が異なる各種の建物を混在させなくてはならない。
  4. 十分な密度で人がいなくてはならない。
繰り返しになりますが、いずれも過去理想とされてきた街づくりとは逆方向に位置します。
計画都市においては住宅地区と商業地区、工業地区、公共施設などが完全に分かれた状態で配置されます。
例えば「首都ブラジリア」でも、ブラジリアがそのように完全に地区による機能を分けて設計されたことが記されていました。
しかし、このような状態では、住宅地区は昼間に極端に人口が減少しますし、商業地区では夜間には人通りがほとんどなくなってしまいます。
そうすると、人の目がない時間帯に治安が悪化して街の荒廃が進みます。
一方、1で主張されるように地区内のある個所が複数の機能を満たしている場合、異なる目的を持った人が地区に新たに入ってきたり出ていったりするため、常にある一定の人通りが見込めます。
これは、整然とした計画に基づいた街づくりからは逆行しており潔癖症な方々には容認しがたいものでしょうが、実際は治安の向上には寄与するのです。

往々にしてありがちなのは、島国や領地が極端に狭い国では治安がよいのに対し、広大な土地を持った国では治安が悪いということです。
これは、街を作る際に道路を広げることができなかったため、必然的に車社会化が進行しなかったことが要因なのかもしれないと思います。
日本の治安が比較的良いのも、人が住める土地が狭かったことが影響しているのかもしれません。
確かにアメリカの郊外の高級住宅地などでは道路が広すぎてとても歩く気が起きず、歩行者の姿が全く見られないことが多いです。
そうすると、まるでサファリパークにいるように車という防御壁からでた瞬間に危険にさらされるというのもありそうに思いました。

本書に書いてあることはシンプルでわかりやすいです。
ただ、アメリカ人の書いた本にありがちなことに、同じ話題を何度も何度も繰り返し説明するために極めてくどい内容となっています。
同じ内容を説明するのに半分くらいの文章でもよいのではと思ってしまいますが…。
あと、巻末の訳者解説の文体は好き嫌いがありそうで、私は苦手でした。
  1. 2017/07/15(土) 20:44:26|
  2. ★★★★
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資源問題の正義―コンゴの紛争資源問題と消費者の責任

コンゴ東部の紛争地帯では、いわゆる「レアアース」と呼ばれる電子部品に使用される鉱物が産出します。
本書では、国軍や武装勢力によって不当に収奪されたレアアースが先進国で販売される製品に使われることにより、間接的に先進国の市民が紛争の継続を手助けしていることになる、という問題について考察しています。

似たような問題としては、シエラレオネなどの「紛争ダイヤモンド」が有名でした。
紛争ダイヤモンドの場合は国連により当該国からのダイヤモンド輸出を禁止したことにより、急速に紛争ダイヤモンドの流通量は低下しました。
しかし、コンゴの「紛争レアアース」についてはそれほど簡単なものではありませんでした。
原因の一つとして、ダイヤモンドと違ってレアアースは最終製品となるまでの工程が長く、かつ他の産地からの原料と混合されることもあるため、最終製品から原産地を追うことが困難だということが挙げられます。
それでも、アップル社などが市民からの追求の結果、原材料の素性にも責任を持つことを宣言して以来、状況は改善に向かっているようです。

そもそも紛争が起きた原因の一つが、隣国ルワンダの内戦でした。
ルワンダから大量の避難民がコンゴ東部に流出した結果、もともと人口の多くなかった当該の地域においてルワンダ系が多数派となり、原住民から見るとよそ者のルワンダ人により地域が乗っ取られたように見えたことでしょう。
また、ルワンダの反政府武装組織も流入して原住民に危害を加えたため、対抗策として地元でも私兵隊が作られました。
これをきっかけに多数の武装勢力が合従連衡を繰り返し、複雑な敵対関係が続いています。
ルワンダ政府の介入(資源収奪も含む)もあり紛争は長期化したのですが、これを見ると当地の人々にとっては反ルワンダ人感情が高まるのはやむを得ないように思います。
避難してきたルワンダ人に非はなくとも、ルワンダ人の流入は原住民にとっては災厄でしかなかったのです。
このあたりは、日本の報道ではルワンダは虐殺から立ち直ったという良い面しか見えてこないので、私もよく知りませんでした。

著者は、日本ではフェアトレード的な消費者意識が低いことを指摘しています。
個人的には、NPO(NGO)に対する信頼感が西欧以外では非常に低いというのも原因の一つだと思います。
捕鯨禁止でもそうなのですが、白人の白人による白人のための独りよがりな善意がいつの間にか国際社会の合意とされてしまい、白人以外に押し付けられているように感じているのではないでしょうか?
実際、NGOや市民運動について、日本では自己満足的な「うさんくささ」を感じる人が多いように思います。
このあたりは強者たる西欧市民には理解しづらいことかもしれませんが。

それほど文章が多いわけではないですが、内容はとても充実しています。
単にコンゴの現状を述べるだけではなく、なぜレアアースの問題が長期間放置されていたかや、単にレアアースを禁輸すればよいというものではないことなど、詳細に述べられています。
本書の冒頭正義論に関する理論的な話から始まったのには、少しびっくりしましたが…。
  1. 2017/07/02(日) 23:11:14|
  2. ★★★★★
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第三の男

グレアム・グリーンは少し前に「情事の終り」を読みました。
面白い面白くないという話よりも、自らの不倫体験を題材にして小説を書くという覚悟に興味を持って、もう一作読んでみようと思ったものです。
買ってから知ったのですが、本作は映画の脚本を書き直したものなのですね…。
確かに言われてみれば、小説として読むより映像で見たほうが面白そうな内容ではあります。

第二次大戦後、西側とソ連が共同統治するウィーンで、親友の不審な死の謎に立ち向かう主人公。
誰が善良なる市民で誰が悪の側にいるのか全くつかめない中、事態は当初の予想とは全く異なる方向へ…というあらすじです。
内容自体は古き良きサスペンス、フィルムノワールという印象。
当時としては面白かったのでしょうが、今読むとやや古臭く感じます。
分量もそれほど多くなく、1、2時間で読み終える中編という感じです。
ちょっと物足りなく感じたというのが正直なところです。
  1. 2017/07/02(日) 20:21:36|
  2. ★★★
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首塚の上のアドバルーン

たまたま本屋さんで見つけてタイトルに惹かれて購入したものです。
後藤明生は「挾み撃ち」を読んだのですが、やや不思議な雰囲気を持ったイメージがありました。

本作は短編小説集なのですが、連作となっており全体で一つのまとまった作品となっています。
主人公は著者を反映したかと思われる、14階建ての高層マンションに引っ越したばかりの50代の男性作家です。
最初の作品「ピラミッドトーク」はマンションから遠くに見える小高い森のようなものから話が始まり、貰い物のピラミッド型の時計(頭を押すと音声で時間を知らせるタイプ)と話が絡み合ってとても面白いと思いました。
しかし、そこから先に読み進めると、歴史好き男性の歴史趣味を延々聞かされているようで非常に苦痛でした。
主人公が首塚から平家物語や太平記を連想してそれらの本を読むのはいいのですが、その内容を微細に解説されても歴史に興味のない身としてはこれがどこにつながるのか全く分からなかったという印象です。
レ・ミゼラブル」で直接本筋にかかわりのないワーテルローの戦いについての長大な文章が続いたことがあったのですが、「レ・ミゼラブル」の場合は最終的には重要な登場人物とつながったのでまだ理解できたのですが…。

本作は「第四十回芸術選奨文部大臣賞受賞作」だそうですが、いったい何がどのように評価されたのかよくわかりません。
歴史が好きな人が読めば、まだ何か面白さを読み取れるのでしょうか…。
  1. 2017/06/26(月) 23:32:38|
  2. ★★
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闇の奥

崩れゆく絆」の著者のアチェベが本作を激しく批判していたというのを聞いて興味を持ったものです。
コンラッドはかつて読んだ「ロード・ジム」があまり面白くなかったのでちょっと心配だったのですが…。

イギリスの港で出港を待つ船乗りが、かつて経験したアフリカ奥地での体験について述べる、という形式の小説です。
解説文によると当時はアフリカについて書かれた冒険物語や旅行記が出回っており、アフリカはどちらかというとわくわくする発見の舞台としてとらえられていました。
しかし、本作ではアフリカは底なしの「闇」であり、うっかり入り込んだものがとりこまれて帰ってこれなくなるような場所として描かれています。
それを反映するかのように、物語自体も特にこれといった終わりはなく、語り手はなんとか無事に帰還しますがその話す内容に教訓などはありません。
単に、アフリカの奥地で象牙の魅力に取りつかれたものが、現地人たちを召使のように従えて当地で死んだというだけの話です。

歴史的には、このような不条理ともいえる小説が登場したこと自体には意義があるのでしょうが、現代にこれを読む意味があるのはよくわかりません。
ただ、アチェベが本作を「人種差別的だ」と批判したのはやや不当なように思います。
時代背景からも、コンラッドが人種差別的な思想を持っていたことはやむを得ず、むしろ当時としてはまだ公平な方だったように思います。
「源氏物語」を女性差別的だといって批判するのと似ているように思います。
  1. 2017/06/26(月) 23:11:20|
  2. ★★★
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