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雑記+ブックレビュー

書評というほどのものはありません。読んだ本に絡めて、日々思うことなどを書いていこうと思います。

無名草子

鎌倉時代初期の文学評論のような作品です。
83歳の老尼がたまたま見つけた風情ある屋敷におじゃまして、そこで若い女性たちが文学作品についてあれこれ感想を語り合うのをそばで聞くというかたちで物語は展開します。
後半三分の一くらいは、著名な女性たちの人生についての論評へと議論は進展します。

長らく忘れ去られていたような状態だったのですが、江戸時代になって散逸物語の研究目的で見直されるようになった作品です。
たしかに、本書で取り上げられている作品は「源氏物語」「狭衣物語」「夜の寝覚」「とりかえばや」を除いてはすべて散逸物語であり、資料的な価値は高いのだと思います。
源氏物語に関する議論は、まるで長編漫画のファン同士が「この場面は最高」だとか「このキャラクターが大好き」だとか、お互いに感想を言いあっているかのようです。
現代から見ると源氏物語は文学作品のような扱いですが、当時としては大人気のエンターテインメント作品だったのでしょう。
そして、源氏物語があまりにも優れていた一方で、これに匹敵する作品がほかになかったというのもよくわかります。
本書でも源氏物語を語る分量に対し、それ以外の作品への言及は比較的少ないです。

散逸物語について書かれた箇所については、普通に楽しんで読むには向いていません。
なぜなら、読んだことのない本の評論は、登場人物の固有名詞が現れてもよくわからず何が何やらちんぷんかんぷんだからです。
元の作品を知っていたら面白いであろうと思われるのですが…。
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  1. 2018/10/17(水) 00:28:16|
  2. ★★★
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希望の国のエクソダス

私にとって村上龍はこの本が初めてです。
有名な作品なので電子書籍化されているかと思ったのですが、紙の本しか出版されていないのは意外でした。
少し前の小説はまだまだ電子化が進んでいないのかもしれません。

本作品が雑誌に連載されていた20世紀の末ごろは、バブル崩壊後の不況が永遠に続くかと思われるほど長い停滞でした。
2010年代になってアベノミクスにより株価が上昇するまでは、永久に日本はこのまま沈み続けるのではないかと思われたものです。
本作品もこの閉塞感を土台としており、緩やかな崩壊に直面して全くの無策である大人に対して中学生たちが反乱を起こし、小さな独立国家のようなものを作って世界と渡り合うというような物語です。
作品を作るうえでさまざまな分野の専門家に取材を行ったようで、そのためかおそらくは当該の分野の専門家がみても論理に破たんがないような内容になっていると思われます。
(その成果は「『希望の国のエクソダス』取材ノート」として出版されています。)

日本という国を見限って国の中に小さな独立国家をつくるという点においては、かなり昔に読んだ「吉里吉里人」を思い出します。
本作品と「吉里吉里人」両方に共通するのは、日本の政府当局者が無能ぞろいだということです。
六月七日の午後、日銀が市場から資金を吸収してしまったために短期の金利が四〇パーセントという異様な上昇を示した。
東証では短期資金がショートしそうな銀行とその取引先企業の株価が暴落した。
政府と日銀はアメリカ財務省証券を担保にして五〇〇億ドルのユーロダラーを調達すると発表した。
そのニュースを聞いて、もうだめだ、と堀井が言った。
「どうしておれたちの政府には度胸がないんだろう。
一兆ドルくらい集めないと意味がないよ、こういう時は。
どうして中途半端な手数で済まそうとするんだろう。」
ここで登場する「堀井」は、主人公の関口が寄稿する雑誌の編集部に出入りしている経済ジャーナリストです。
無能な官僚に対して、一介の有能な市民が的を射た指摘をするというステレオタイプな場面です。
また中学生たちが作った国は理想郷のようです。
ほとんど問題らしい問題がありません。
いくら設定が練られていたとしても、こういうご都合主義的な展開を見ると一気に物語の真実味が薄れます。

本作品に対して、中学生がこんなことをできるはずがない!という批判は的外れなように思うのですが、それ以外の部分で物語の展開に説得力がないのが最大の問題点のように思いました。
テレビの2時間ドラマを連想します。
  1. 2018/10/14(日) 23:25:00|
  2. ★★★
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エロマンガ表現史

本屋さんで見つけて買おうかどうか迷っていたところに、hontoで太田出版書籍の40%オフセールがあったので電子書籍で購入したものです。
本屋さんでぱらぱらと立ち読みしていたところ、「はじめに」の箇所に下記のような文章を見つけました。
エロマンガは作家が「表現」を実行する場でもある。
男女の性愛、セックスを物語の中心において描かれてきたジャンルでもあるが、補集合的に言えば、その制約以外は何をしてもいい、ということでもある。
歴史的に見てもエロマンガは、時に前衛的で、進歩的、そして革新的な表現に満ちあふれていて、あまたの新しい表現が生まれては消えていったマンガ表現の最前線であり、また実験場でもあった。
かなり昔に読んだ「「日本製映画」の読み方」を思い出します。
手元に今この本がないので引用ができないのですが、この本には日本の映画監督の多くがピンク映画出身であること、そしてピンク映画はエロさえあれば何をやってもよいために映画表現の実験場として最適であったことが書かれていたと記憶しています。
今となってはピンク映画はかなり衰退してしまったのですが、エロマンガはまだまだ勢い盛んです。
かつてのピンク映画が持っていた前衛的な雰囲気をエロマンガが持っていたりするのかなと思ったりしました。

本書では、エロ漫画において産み出されてきた新たな表現技法についてそのルーツを探り、発明者が明らかになっている場合はその人物に対してインタビューを行っています。
乳首残像、触手、断面図、アヘ顔、そしてエロマンガ特有のオノマトペなど…。
「うろつき童子」という触手表現を多用したエロマンガ原作のアニメは海外でも有名になり、著者の前田俊夫は「テンタクルマスター」としてアメリカのマニアの間では有名だそうです。
これ以外にも、エロ漫画家の新堂エルは米国生まれの米国育ちだったのですが、エロ漫画を描くために日本に来てエロ漫画家として成功したとのこと。
米国に比べて規制がある意味でゆるい日本は、エロマンガには適した市場なのかもしれません。

本書のタイトルは「エロマンガ表現史」なのですが、個々の技法にこだわりすぎているようにも思いました。
たとえば、印象派といえば点描がすぐに思い浮かびますが、実際は点描そのものは印象派の必要条件でも十分条件でもありません。
時々刻々と移り変わる戸外の光を描写することを志向した結果、その方法の一つとして点描を用いたのであり、点描は手段に過ぎません。
本書で扱われているさまざまな技法についても同じことがいえると思います。
しばしば本書には「エロマンガのハードコア化」なる言葉が現れるのですが、これについては明示的に解説された箇所はないように思いました。
可能なら、これらの大きな流れを描写する中で生まれてきた手段という位置づけで解説した方が、それぞれの技法が産まれた背景についてより総合的な理解ができたように思います。

どちらかといえば、個別技法の羅列に近いところもあり、このあたりはエロマンガそのものに強い興味がないと読んでいてもあまりピンと来ないように思いました。
詳しい人が読めば、もう少し得るものがあるのかもしれませんが…。
  1. 2018/10/09(火) 21:36:32|
  2. ★★★★
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日本の長い戦後――敗戦の記憶・トラウマはどう語り継がれているか

著者の橋下明子は子供のころからロンドンや東京などで暮らし、その後ロンドン大学卒業後現在はアメリカの大学で教授となった人物です。
本書ももともとは英語で出版されたものを、翻訳家が日本語に訳しなおしたものです。
おそらくは、原書では日本の読者にとっては当然すぐにわかるような事項についても注釈があったと思われるのですが、日本語版ではそれらは省かれています。
(たとえば、「ドラえもん」の「のび太」については日本人に対しては注釈は不要でしょう)
もともと著者が日本語話者であるためか、極めて読みやすい文章です。

本書では、現代の日本人が第二次大戦における敗戦を語る基本的な姿勢を3つに分けています。
第一の類型は、戦争を勇敢に戦った英雄の物語としてとらえるものです。
これはナショナリスト的な語りであり、かつての戦争は避けられなかった、またはある種の正当性を持っていたとか、現代日本の繁栄はかつて亡くなった方々のおかげであるという考え方に代表されるものです。
第二の類型は、日本人が戦闘や空襲、苦しい生活などの犠牲となったという被害者的なとらえ方です。
無能な政府によって推し進められた戦争により、罪のない末端の兵士は悲惨な死を迎えることとなり、一般人も原爆をはじめとする市民への攻撃により恐ろしい目に遭ったという考え方です。
第三の類型は、日本人がアジアの他の国の人々に対して侵略、搾取、暴力などに代表される加害者としてふるまったというものです。
第一と第二の類型は主に自国へのみ目が向いているのに対し、第三の類型では他国に対して自国が与えた影響を重視します。
これは見事な分類の仕方だと感じました。

日本においてはよく右派と左派の政治的な対立が報道されます。
右派は、例えば集団的自衛などにも参画できるようにすることで自衛隊の権限を徐々に広げ、他国と同等の自衛権を持つ国を志向しているといわれます。
一方で左派は、かつての戦争で国民が受けた苦しみを忘れてはならないと主張し、戦争を二度と起こさないような歯止めとしての憲法を重視するといわれます。
これらは上記でいう第一と第二の類型に相当しており、加害の歴史に対する視線は極めて弱いものです。
実際、反戦を主張する人々も多くは、「自らの子供を戦争に送るようなことがあってはならない」とはいうものの「他国民を蹂躙した過去を繰り返してはならない」という声はそれほど強くありません。
日本全体が敗戦という経験を経て、被害者意識に染まったことが原因だと思われます。
右派はその被害者意識が主に他国に向いているのに対し、左派は日本政府上層部に向いていることのみが異なっています。
よって、一般市民たる自らが加害者となりうるなどとは「ゆめにも」思っていないように見えます。

本書では取り上げられていませんが、従軍慰安婦に関する報道の正否がよく話題となります。
右派は慰安婦報道はでっちあげであり、東アジアの国々が政治的にこの話題を利用しようとしているという被害者意識を持っています。
一方で左派は、慰安婦は当時の政府の「お偉いさん」が推進したものであり一般市民が犠牲者となってしまったという考え方を行い、他国の一般市民と自らを同一視することでこちらもまた被害者意識を持つことになります。
もちろん、現在存命の人々の多くは直接は従軍慰安婦にはかかわっていないのですが、自らと深くかかわりあいのある人が従軍慰安婦を積極的に推進しただとか、またはさらに直接的には従軍慰安婦を利用したとかいう可能性はほとんど語られません。
鋭く対立しているように見えるのですが、結局は自分自身は加害者の範疇の外に置くという点で、無意識のうちに同盟関係が結ばれています。

個人的には、右派左派いずれも、議論の相手を無条件に悪とみなす姿勢そのものに危険を感じます。
みずからを安全地帯に置き、相手を鋭く非難するとうなメンタリティの持ち主は、情勢が変化すると罪の意識の全くない加害者に容易に転換するもののように感じます。
本書はとてもフラットで公平な記述がなされているので、本書を読んだ人が私が感じたようなことを感じるかどうかはわかりません。
しかしながら、どのような意見を持った人にとってもある種の思考の整理ができるようなとても良い本だと思います。
  1. 2018/10/02(火) 22:59:56|
  2. ★★★★★
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目まいのする散歩

武田泰淳の最晩年の随筆です。
彼の作品は、戦争×文学のシリーズで「ひかりごけ」、「「ゴジラ」の来る夜」などを読んだことがありますが随筆は初めてです。

本書のタイトルの「目まいのする散歩」というのは、文字通り散歩中に目まいがするという意味です。
糖尿病による脳梗塞で倒れて入院したあとなので、体の自由が利かずに散歩程度の軽い運動でも目まいを起こしてしまうのです。
それ以外にも彼は複数個所にガンも患っており、本書の出版後ほどなくして亡くなることとなります。
本書ではこの「現在」時点の表題作から始まり、その後かつて著者の娘がまだ幼児だったころを描いた「あぶない散歩」などを経て、手術直前のもはやかなり体調が怪しくなった時期を描いたと思われる「安全な散歩?」に帰ってくるという構成。
まるで自らの死期を悟っているかのような並びだと思います。
実際、もうながくは生きられないことはよくわかっていたのでしょう。

すでに著者は自ら文章を書くこともできないので、口述筆記にて妻にペンをとってもらっています。
一方で内容は、とくに若いころを思い出したくだりでは妻の武勇伝?のようなものも多く含まれており、本人に本人の恥のようなことを書かせるのはよほど信頼があついのか図太いのかどちらかだと思います。
主に妻のことを記した「鬼姫の散歩」には
この原稿は、当の彼女が筆記しているくらいだから、プライバシー問題は発生しないと思う。
という注釈とともに、かなり赤裸々に過去のできごとが書かれています。
夜更け、店がひけた後、酔払った彼女が、焼け跡の空地のごみ箱の上にのって動こうとしなかったことがある。
(中略)
しがみつくようにごみ箱の上にのり、何やら罵りわめいている彼女をひきずりおろし、私は、深夜の神田街を歩いていく。
彼女の髪は黒く長く垂れていたので、私は、その髪をひっつかんで歩いたような記憶がある。
(私が、ひっぱってと口述すると、彼女は、ひっつかんだのだ、といって訂正した。)
これだけを読むと、妻も嫌がらずにむしろすすんでこの口述筆記に参加したように見えます。
なかなか得難い関係性だと思います。

全体的に不思議な感じの文章で、自由にとくに技巧的なまとまりを志向しているように見えない文章がながらも、内容にはまとまりがあり極めて読みやすいです。
口述筆記でここまでわかりやすく文章がまとまるものかと思いました。
(あとで推敲を入れているのかもしれませんが。)
文筆家として長年を過ごした技を感じさせられる見事な文章だと思います。
  1. 2018/10/02(火) 22:13:38|
  2. ★★★★
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生徒会の周年 碧陽学園生徒会黙示録

完結したと思われた「碧陽学園生徒会黙示録」のシリーズの続編です。
シリーズ10周年を記念して戻ってきました!とのことですが、中身はさまざまな販促特典として書かれた短編の集合体+一部書き下ろしというものです。
書き下ろしは単体で見てもだいたい内容が把握できるのですが、販促特典のほうは「おまけ」だけあって本編がないとよくわからないものもあります。
私も全編一度は読んだのですが、さすがにマイナーな登場人物までは全員記憶に残っているわけではなく、読んでいても混乱することが多かったです。
あとがきを見るに、著者本人でさえも書いたことを忘れているような代物も相当数あったようです。

シリーズの熱狂的なファンならともなく、そうでなければ無理して読むようなものではないと思います。
コレクターズアイテムといってもいいかもしれません。
  1. 2018/09/24(月) 23:18:48|
  2. ★★★
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北爆の下―ベトナムー破壊対建設

本田勝一といえばベトナム戦争ルポを連想します。
本書は数多く出版された本田勝一のベトナム戦争関連書籍のうちのひとつです。
著者がベトナムに滞在したのは1967年なので、今から約50年前のことです。
私が中学生のころ、社会科の授業で「第二次世界大戦から50年」とよく言われていたのを思い出します。
今のベトナムの10代の学生にとってのベトナム戦争は、私にとっての第二次世界大戦くらいの距離感なのかもしれません。

本書の前半で取材されていた南ベトナムを実質的に支配していたのはアメリカ軍でした。
彼らの軍事行動は莫大な費用を使いながらも必ずしもうまくいってはいませんでした。
よく知られているように、現地人に対する無意味な虐殺も相当な数行われたようです。
本書でもこれを反映して、米軍の行動に対する批判的な記述が目立ちます。
一方で、南ベトナムでゲリラ活動を行っていた解放戦線、いわゆる「べトコン」に対しても無条件に好意的な記載がなされているわけでもありません。
どちらも民衆に対してある時は略奪者になり、またある時は庇護者として働いていたようです。
内戦下における典型的な構図だともいえます。
この点においては、著者の記載はバランスがとれているように見えました。

一方で後半で取材している北ベトナムでは、基本的に著者はベトナム人民軍に好意的な態度をとり続けます。
この原因の一つとして、南ベトナムでは比較的自由な取材が許されていたのに対し、北ベトナムでは人民軍のシナリオに沿った取材のみが許されていたことがあると思われます。
当時の米国も清廉ではありませんでしたが、すくなくとも南ベトナムではある程度の報道の自由は保証されていました。
そのため、戦争がうまくいっていないさまがありのままに取材者に伝わりました。
北ベトナムでは取材が厳しく制限されていたため、問題がありながらも理想に近い国家としての北ベトナムが巧妙に演出されていたようです。
情けないことに本田勝一は完全にこの罠にはまってしまったように見えました。
私は仕事がら、重要人物による自社の見学をアテンドした経験があるのですが、この時も自社のよい部分だけをうまく切り取って見てもらうこととなります。
多くの場合、見学者は自社に対して良い印象を持って帰っていくのですが、アテンドする側としては内心は非常に複雑なところがあります。
著者はプロの記者なのですから、もう少し警戒感を持ってもよかったようなものですが…。

もう一つ感じ取れるのは、素朴なベトナム民族に対するロマンティックなあこがれです。
これは、近代的な米国人、または日本人への対概念として描かれています。
古き良き知恵を持ったベトナム民族による不屈の精神が、先端技術により堕落した米国人、日本人を打倒するといった世界観です。
これは大東亜共栄圏を推進した旧日本軍の中枢にいた人々と同種の思考回路に見えるのですが、当人はこれに気付いていないようです。
私は個人的には当時の新左翼の人々に強い不信感を抱いているのですが、著者に対しても同じような印象を受けてしまいました。

内容についてはどうかと思うことが多かったのですが、本書の中身としては写真が多くて読んでいて面白かったのは事実です。
  1. 2018/09/23(日) 23:07:09|
  2. ★★★★
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サイキス・タスク―俗信と社会制度

金枝篇」で有名なフレイザーによる著書です。
「金枝篇」に興味はあるのですが、さすがにあまりにも大部で読むのにハードルが高いと思っていたところに、古本屋で本書を見つけて購入しました。

本書の主張は下記4つだけです。
  1. 多くの俗信は社会的秩序の制定と維持に寄与していた。
  2. 多くの俗信は私有財産の保護に寄与していた。
  3. 多くの俗信は性的道徳の規律を保つことに寄与していた。
  4. 多くの俗信は人命尊重に寄与していた。
たとえば1の例でいうと、首長には強大な魔力のようなものが備わっており、これに逆らうと恐ろしい目に遭うというような俗信が信じられていたことを示します。
これにより、共同体における反乱が抑制され、社会的秩序が保たれるというものです。
同様に、人のものを盗んだり、性的な逸脱を行ったり、人を殺したりすると不思議な力で罰せられるという俗信がさまざまな民族の間で信じられていたことが示されます。

そして、この主張を裏付けるため、世界中から膨大な量の俗信の例が羅列されています。
あまりにも例が多すぎるため、ともすれば無秩序に見えてしまうくらいの量です。
著者の主張と合致する例を数百単位で示すことでその正しさを補強しようというものですが、通読するにはあまり向いていません。
これは百科事典的な使い方をするべきものなのかもしれません。

聞くところによると、「金枝篇」も同様に膨大な実例が羅列されているとのことです。
これは学問というよりも、博物館的な資料収集に近いように思います。
  1. 2018/09/22(土) 22:48:42|
  2. ★★
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太平洋に於ける民族文化の交流

古本屋さんで100円で購入したものです。
まさに太平洋戦争の真っ最中の1944年の発行というだけあって、内容は戦時色が鮮明です。
人類が自然民の状態の時期から長い間に亙って移動に使用した経路は謂はば天下の公道である。
海であらうとも、陸であらうとも、其の重要性は古今を通じて変わらぬものである。
今日は飛行機も出来たし、汽船も出来て、一見最早太古からの公道は不要に帰したかの如く見へる。
然し大東亜戦の行はれつつある状態を判ずると、要するに戦争の進行は此の民族通路の遮断或は争奪を主として行はれつつある。
此の結果から逆に判断しても、民族移動路は現代戦争に於て如何に重要なるものかが分る。
「太古からの公道」は、陸路であれば地形的に人の通行が容易なルートであるし、海路であれば陸地と陸地の距離が比較的近いことが多いので、飛行機の航続距離や火器の射程距離などを考えるとそういった場所が重要になるのは当然といえば当然のように思うのですが…。
自らが過去研究してきた考古学知識ととロマンティックな大東亜共栄圏に対する思いが絡み合い、現代から見ると典型的な「トンデモ本」的な内容となっています。

それでも第一章はまだ本人の業績によるものなので読んでいてもいくばくかは面白いのですが、第二章、第三章は過去の資料まとめでしかなく、あまり読む価値を感じられませんでした。
第二章は、主に江戸時代に書かれた民俗学的な文献の紹介です。
当然ながらその内容は間違いが多く、まるでプリニウスの「博物誌」を思わせるような奇想天外な生き物が登場したりもします。
これらについてひとつひとつ紹介しており、研究者にとっては有用な文献かもしれません。
しかし私のような一般人にとっては、さまざまな文献の羅列を見てもその細かな違いを感じ取ることは難しかったです。
第三章は、こちらも江戸時代に漂流して偶然外国を見聞した人々が書いた本をレビューしたものです。
こちらも完全なる羅列でした。

大仰なタイトルながらも、内容は極めて薄いと言わざるを得ません。
著者は若いころには優秀な病理学者だったようですが、のちに趣味の考古学にのめりこんでからはかなり奇妙な思想を持つに至ったようです。
本書もその奇妙さを感じるにはよい本かもしれません。
  1. 2018/09/20(木) 20:38:33|
  2. ★★★
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音 (百年文庫)

ポプラ社から出版されている、短編集シリーズの中の一冊です。
このシリーズは有名な作家が多く取り上げられているのですが、収められている作品は必ずしもその作家にとっての代表作ではありません。
むしろ、かなりマイナーな部類に入る短編を選んでいるように見えます。
本書には幸田文、川口松太郎、高浜虚子の短編が収録されているのですが、とくに高浜虚子の散文は初めて見たので新鮮でした。

「音」をテーマにした一冊なのですが、三作品ともその「音」は控えめで、静かな中に染み入ってくるような音です。
幸田文の「台所のおと」では病床にある夫が妻の台所での料理の音を聞き、川口松太郎の「深川の鈴」では内縁の妻が連れ子が起きたらわかるようにとつけた鈴を、深夜に別の部屋から聞きます。
中でも特によかったと思うのは高浜虚子の「斑鳩物語」にて、出張先の奈良の旅館から夜聞く機織りの音とその最中に口ずさむ歌です。
パターン化されてはいますが旅情を感じさせるものだと思います。
小説という媒体では、騒音とか大音量などは映画と違ってなかなか伝えがたく、このような小さいながらも印象的な音のほうが取り扱うのに適しているのかと思いました。
  1. 2018/09/15(土) 09:17:23|
  2. ★★★★★
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男性と女性 移りゆく世界における両性の研究

アメリカの女性文化人類学者マーガレット・ミードの著作。
彼女は「菊と刀」で有名なルース・ベネディクトの弟子なのですが、ベネディクトも女性文化人類学者でした。
ミード本人はサモアやパプア島におけるフィールドワークの業績で知られています。
ただし、私自身が彼女の著作を読むのは初めてです。

本書は上巻と下巻に分かれているのですが、上巻では著者がフィールドワークを行った7つの文化を引き合いに出し、一般的に信じられている男性と女性の社会における役割の違いなどが、極めて恣意的なものであることが示されています。
そして、その中からも、男性と女性の性差についての普遍的な要素を探しもとめようとしています。
そのような記述のうちの一つを引用します。
原始的な、単純な社会で、だれでも女はみな結婚する社会では―――出産ということでついに栄冠を与えられる。
この出産というのは、非常に現実的で、非常に確実な経験であるから、母性の価値をあまり高くみない社会に育った、ごく少数の、非常に病質の婦人以外はこれを否認することはできないものだ。
それゆえに、女性の生涯は、最初は自分の母親と同一視することで、最後にはこの同化が真実であり、自分はもう一人の人間を造ったという確実さをもって、つまり確実さで出発し、確実さで終わる。
(中略)
しかしながら、男性にとっては、(中略)母親と違って、人間をつくるためにからだを使って、直接的な、筋の通ったやり方で赤ん坊をつくるところの生物と違うということの自覚を余儀なくされる。
つまりは、女性は子供を出産する過程で、自らの体内で新たな命を作りだしたということが確実となり、人生の初期において最も親密に接した他人である母親と自分を同一視することができます。
一方で男性は、産まれてきた子供を自分が作りだしたという確実な証拠がなく、また母親と自分を同一視することもできないため立脚点が不安定であることを言っているのです。
そして、男性のこの状況を補てんするために
すべて、これまでの人類社会では、男性の、業績を上げる必要性がみとめられてきた。
男は料理もし、糸もつむぎ、人形に着物をきせ、はちどりを狩りしてもよい、けれどもそうした行動が男にとって妥当な職業であるときに、それを全社会は、男女とともに、重要な職業ときめる。
もし同じ職業が女のすることであれば、それは重要性が少ないとされる。
人間の多くの社会で、男性の性的役割の確実性は、女性が実行することを許されないような、ある種の行為を行う権利と能力にむすびつけられている。
事実、彼らの男性たることは、女性を何かの分野に入ることや、何かのわざを果たすことから妨害することによって保障されねばならないのである。
ということになるのです。
この正否について判断する十分な材料を私は持ち合わせていないのですが、説得力のある理屈だと思います。

ただし、上記は「だれでも女はみな結婚する」ような原始的な社会についてのものです。
下巻では、1940年代のアメリカ、女性の社会進出が進み生涯にわたり出産を経験しない女性が相当数発生するようになった社会におけるひずみについて述べられます。
女性が職業に就くことにより、男性にとって女性が競争相手として認識されるようになります。
一方で過去の考え方から、男性には男性特有の能力があり女性は劣っているものであるという「常識」があるため、男性は女性よりも能力が高いことを証明しようとして極めて強迫的な精神状態に陥ります。
逆に女性は、結局社会の要請に従って家庭を守ることに専念したとしても、自らの意志でこの人生を選んだのかどうかについて自分でも生涯にわたり不透明なままとなります。
これは80年前のアメリカ社会についての記載なのですが、まさに今でも成り立つような内容だと思います。

先ほど引用した文章からもお分かりいただけると思うのですが、翻訳はあまりよくないです。
また昔の本にありがちなのですが、文字が非常に小さく読みづらいです。
そのため、本の体積、重量に比べて極めて大部の著作となっています。
もうちょっと翻訳さえよければ、とても面白い本だと思うのですが…。
  1. 2018/09/15(土) 07:33:10|
  2. ★★★★
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検証信楽列車事故―鉄路安全への教訓

古本屋さんで100円で購入したものです。
信楽高原鉄道の列車同士の正面衝突事故は、今となっては話題となることも少ないですが、関西圏に住んでいた私は連日ニュースで事故の状況が報道されていたのを覚えています。
本書の特色は、事故が起きてすぐの時点ではなく、10年が経過したのちに改めて事故を振り返ったというところにあります。

当日は信楽にて「世界陶芸博」が開催されていました。
信楽は山奥の田舎町で高速道路も通っておらず、信楽での大規模なイベントにおいては観光客の輸送が大きな課題でした。
イベントを主催した滋賀県や信楽町は、開催の1年前に信楽高原鉄道とJRに対して観光客の輸送に際して協力要請を行っています。
しかし、この要請はあまりにも遅く、準備期間が全く十分ではなかったことが事故の遠因の一つとなりました。

京都大阪から信楽にスムーズに乗客を輸送するため、JR草津線と信楽高原鉄道では博覧会期間中に列車を相互乗り入れすることとなりました。
しかし、信楽高原鉄道はJRから分割した第三セクターで社員は10人しかおらず、大規模なイベントに対応できる体制ではありません。
このため、信楽高原鉄道の路線をもともと保有していたJR西日本に対して協力要請を行いました。
その一つが、信楽高原鉄道内の信号場新設です。
単線である信楽高原鉄道は運用による輸送力増強に限界があったため、列車のすれ違いができる信号上を新設して対応したのですが、この設計をJR西日本に委託したのです。
この際、JRは信楽高原鉄道に通告せずに設計内容を当初予定から変更したため、イベント当日になって信楽駅で信号が青にならないというトラブルが発生して、現場は大混乱に陥りました。

信楽高原鉄道の実質上の運行責任者であった業務課長は、赤信号を単なる機械上のトラブルであると判断して、赤信号のまま列車を運行させるという判断を行いました。
この業務課長はかなりのパワハラ気質だったようで、安全面の懸念を伝えた部下に対して罵声を浴びせたようです。
この結果、単線の線路内で草津線から相互乗り入れしてきたJR車両と、信楽駅からやってきた信楽高原鉄道車両が正面衝突してしまいました。

直接的な原因は、信楽高原鉄道が赤信号を無視して列車を運行したことにあります。
しかし、赤信号が解消できなかった原因は、JRがわが無断で信号機の設計を変更したことにあることが判明しています。
このため、大量の乗客を前に対応に窮した業務課長が、誤った判断を導いてしまったのです。
そして、事故の原因調査の過程で、JRによるこの無断の設計変更の事実を隠蔽し、すべての責任を信楽高原鉄道に押し付けようとしたことも判明しています。
2005年の福知山線脱線事故におけるJRの対応などを見ていると、企業風土というものは変わらないものだと思います。

不祥事を起こした会社は、再発防止体制や経営陣の刷新などを広報しますが、再び不祥事を起こす可能性が極めて高いです。
最近では東芝、少し前では三菱自動車などが複数回不祥事を起こしました。
これは、不祥事を起こす体質が簡単には変化しないことを表しています。
一部の役員が退任になったとしても、その役員により取り立てられて出世した上位の管理職はそのまま残っており、彼らは不正を行った会社の体質を形作る重要な要素です。
JR西日本の福知山線事故における不誠実な対応を見ていると、信楽高原鉄道での反省は全く活かされていなかったのでしょう。

本書では、専門家以外にもわかりやすいように、親切に経緯が説明されています。
(一部「閉塞」などの専門用語の解説が足りないように思いましたが)
個人的には「失敗学」というのは看板倒れだと思っていますが、人が追い込まれて間違った判断をするという典型例を知るにはよい本だと思います。
  1. 2018/08/28(火) 00:08:26|
  2. ★★★★★
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向こう半分の人々の暮らし: 19世紀末ニューヨークの移民下層社会

少し前に読んだ「ニューヨーク 都市居住の社会史」では、19世紀のニューヨーク貧困層の住宅状況のひどさが述べられていました。
これは、現代から過去の住宅状況を振り返ってまとめたもので、貧困層だけでなくあらゆる社会層の住宅事情について述べたものでした。
ニューヨークは日本の東北地方とあまり気候が変わらず、夏は30度を超える暑さが続き、冬は氷点下まで温度が下がります。
しかし、「テナメント」と呼ばれるいわゆる安アパートでは、現代と違って空調設備などもない上に採光や通風も考慮されず、極めて非衛生的で不快な生活が行われていました。
現代では空調設備やエレベーターが普及したため、家賃が高いとは言えども当時ほどのひどい状況は脱したと考えられるのでしょう。

本書の原書は1890年に出版されており、「テナメント」(本書では「テネメント」と表記されています)でのひどい暮らしが喫緊の課題でした。
タイトルの「向こう半分の人々」というのは、中流層が目にすることのない下流市民を表しています。
現代でもニューヨークには地域により裕福な層と貧困層が完全に分かれていますが、当時は今以上に場所により住民が区分けされていました。
経済状況だけでなく人種によっても住む場所がわかれており、アイルランド人やイタリア人といった移民は基本的には英語をしゃべることもなく「テネメント」で固まって住んでいたようです。
著者は、これらの下層階級の町に自ら乗り込んでいって取材し、この様子を克明に記しています。

確かに面白いのですが、原文が翻訳のどちらかが非常に悪いようで、とても読みづらい文章です。
日本語として成り立っていないような場所もあり、意味をとるのに非常に苦労しました。
もったいない本です。
  1. 2018/08/26(日) 22:53:41|
  2. ★★★
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今昔物語集 本朝世俗部

もともと「新潮日本古典集成」のシリーズは箱入りのハードカバーの形式だったものが、最近一部が「新装版」として箱なしのやや小型になって再発行されています。
このシリーズは注釈もよくて気に入っていたのですが、重すぎて持ち歩くのに向いていないのが唯一の欠点でした。
今回新装版になって軽くなったので、また購入してみたものです。

本書は4巻セットだけあって分量も多いです。
たとえば、乙巳の変や応天門事件、安和の変などといった歴史的な事件についても記載されていますが、やはりそれよりも民間伝承のような奇譚のほうが読んでいて面白いです。
(本書の多くの部分では、これらの奇譚も事実であるという主張を行っており、その裏付けのためにわざわざ時代や登場人物の素性を明らかにしたりしていますが)
そして、これらの奇譚を読んでいて思うのは、やはり昔は人間の住む世界とそれ以外の人ならざる者が住む世界の境目がいろんなところにあったのだということです。
源氏物語」では、登場人物の夕顔が荒れ果てた家で鬼?に魅入られて死んでしまうという箇所がありましたが、本書にも似たような話はたくさん掲載されています。
人が済まなくなった建物には鬼やその他の人とは異なったものが住み着き、ある時は物理的に人を食らい、ある時は人の魂を食らうことで間もなくその人は亡くなってしまいます。
また、山中や海もこの世と別の世界との扉となることが多く、見たことのないような動物に出会ったり、または桃源郷に行き当たったりします。

今となっては日本の国土のほとんどは人の手が入っており、舗装されていたり植林されていたりするものですが、かつては全くそうではありませんでした。
そのため、少し街中を外れるとその場所の主役は人ではなく、人以外の何かだという感覚を持ったことでしょう。
しかも、「王朝政治史論」にもあったように、当時は治安が極端に悪化し、夜盗や追剥がいたるところに現れました。
平安京どころか大内裏の中でも夜になるといつ襲われてもおかしくない状況です。
そして、被害に遭った後の死体は、速やかに野犬に食い荒らされてしまう運命にありました。
このような状況では、今よりも死ははるかに近くにあったと思われます。
本書でも死の記載はさまざまなところに見られます。
今と違って苦痛を抑える薬などもなかった時代、近くにある死に対する恐怖は本当に大きかったものだと思います。

今昔物語全般に言えることですが、古文の読解は比較的簡単です。
(少なくとも「源氏物語」よりは読みやすいと思います)
慣れると注釈なしでも、ほとんど原文で読んで理解できるでしょう。
趣味で読むにはとても適している本だと思います。
  1. 2018/08/19(日) 15:47:57|
  2. ★★★★★
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王朝政治史論

古本屋にて100円で購入した本です。
最近、新潮日本古典集成の「今昔物語集 本朝世俗部」で新装版が発行されたので少しずつ読み進めています。
今昔物語の記述は、古くは蘇我親子が惨殺された乙巳の変から始まっています。
しかし、だいたい1100年くらいの成立なだけあって、読者にとっては道長、頼通の摂関政治最盛期はそれほど遠い時代ではなく、平安時代後半の記載がやはり重いように思います。
また、今昔物語は政治の中枢よりも、一般の民衆や下級官吏といった市井の人々が多く取り扱われています。
そこで、王朝文学ではよくわからない下級の人々の生活について知りたく思い、読んでみることにしました。

この種の歴史本の多くは、検証が不可能な題材を扱うことが多いためか、著者の完全なる思い込みにしか見えないことがしばしばです。
カール・ポパーは「反証可能性」を重視し、反証が不可能な学問は学問ではないと主張しました。
私は完全にこれに同意するものではないですが、たまに邪馬台国畿内説と九州説で終わりのない言い争いをしているのを見ると、ポパーの気持ちもよくわかるような気がします。
本書はおそらくはそういった思い込みのみによるものではなさそうですが、それでも検証ができない事実に対する断言が多すぎるようには感じました。
著者は相当の文献を読み込んでいるのですが、人というのは自分の説に沿う文献ばかりを選択してしまうという傾向があります。
門外漢の私には、どの程度著者のいうことが客観性があるのかはよくわかりませんでした。

それでも感じることができたのは、時代が下るにつれて一般の民衆への搾取が激しくなっていったことです。
延喜・天暦の聖代などといったりしますが、実態は政治的に無力な貴族が遊戯と浪費の世界に逃避しただけであって、農民から見ると「受領ハ倒ル所ニ土ヲツカメ」といわれるほどの強欲な受領により、ますます厳しい生活に沈んでいったのが良くわかりました。
「王朝政治史論」という雅なタイトルとは裏腹に、かなり厳しい内容でした。
  1. 2018/08/16(木) 23:00:59|
  2. ★★★
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東芝不正会計事件の研究: 不正を正当化する心理と組織

東芝の事件については日経などのネット記事で端々の情報は入手していましたが、全体像を知りたいと思い本書を読んでみました。
似たような本としては「粉飾の論理」を読んだことがあったのですが、これに比べると技術的には非常に簡単な構造だと思います。
工事案件で適切な時期に減損処理を行わなかった問題、不正バイセル問題、費用発生の時期を後ろにずらすことにより見かけ上の損益を改善した不正など、いずれもやっていることはマイナスの先送りす。
それよりも、会社の歴代トップと相当数の関係者がこれらの不正を推進してしまったということが、最大の特徴のように思います。
普通は不正というと、その発覚リスクを低減するために可能な限り少数の人間だけが関与するというイメージがあるのですが、東芝においては末端の人員含めて100人は下らない社員がこの不正を知っていたと思われます。
これが成り立ったのは、東芝という会社の社風によるものが大きいのでしょう。

本書では様々な問題点が指摘されていますが、なかでも社外取締役や会計監査人、そして第三者委員会といった会社の不正を防いだり暴いたりする役割を持った者が、会社側から報酬を得ているというのは根本的な問題だと思います。
これは日本特有の問題ではなく海外でも同じなのでしょうが、日本では株主の権力が小さいためにたとえ不正を見逃しても訴訟を起こされるリスクは比較的小さいです。
そのため、不正を見逃すことで会社側のご機嫌をとる方向に流れてしまうのでしょう。
今回、新日本監査法人がそれなりに厳しい処分を受けたため、監査人については今後改善がみられるかもしれません。
(実際、東芝を新規に監査することとなったPwCあらたと東芝は鋭く対立することとなりました。)
しかし、社外取締役については、少なくとも日本においては単なるお飾りの状態が続くことでしょう。

もう一つ大きな問題は、東芝では歴代の役員が相談役や顧問として社に残り続けることです。
このため、過去のトップによる不正や失敗を修正できない体質にあったことです。
これは現在でもまったく変わっていません。
  • 不正会計が発覚したのちも、小出しで米国の原発子会社に関する不正な会計が次々と明らかになった。
  • 東芝がかつての役員に対して起こした訴訟における、対象者と賠償請求金額が極めて限定的である。
  • 米国の原発関連子会社の不正経理を指摘した監査法人に対し、契約解除をちらつかせて恫喝した。
  • ほかにも不正がないかを洗い出すための社内アンケートを記名式とした。
など、客観的に見て社として反省しているようには全く見えません。
こういう大きな事件があるとこれを契機に会社というものは大幅に変わると思いがちですが、過去のトップが残る以上、社風というのはそんなに簡単に変わるものではないということだと思います。

私もサラリーマンをやっていますが、私に見える範囲にも気に入らない報告が来ると怒り出すトップというのは存在します。
この場合、正直な報告をしてもらちが明かないので、特に気の弱い人、まじめな人は飾った内容、時にはうその内容を報告することになります。
予算 (売上、利益等の計画) では特にこれが顕著です。
恫喝されてうその計画を報告して、何か問題があったら「お前らが自分で約束した計画だ」といって自らの責任を回避するというのは、どこでもあることなのだと思います。
確かに東芝ではその度合いがひどかったのかもしれませんが、この手のうその連鎖は密室で発生するために本当に厄介です。
個人的にはこういうのを見ると、絶望感すら感じてしまいますが…。

本書の記載はとても分かりやすく、専門外の人間でも理解は容易だと思います。
東芝に就職しようと思う人はぜひ読んでみたほうが良い本だと思います。
  1. 2018/08/13(月) 23:16:12|
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滝口入道

本書は、高山樗牛が東京帝大在学中に執筆したものとして名高い作品です。
以前から本書の存在自体は知っていたのですが、「明治の文学 」で紹介されていて興味を持ち、青空文庫で読んでみることにしました。

特に驚きなのが、極めて美しい擬古文で書かれていることです。
20代前半の若者がこんな文章を書けるというのは本当に信じがたいです。
「明治の文学」には樋口一葉の20代のころの日記も掲載されていましたが、こちらも見事な擬古文でした。
(一葉は24歳にて亡くなっているので、20代以降の日記はそもそも存在しようがないのですが。)
当時の教養ある人々は、擬古文を造作もなく使いこなしていたのでしょう。
本書でとくに有名なのは冒頭部です。
やがて來む壽永の秋の哀れ、治承の春の樂みに知る由もなく、六歳の後に昔の夢を辿りて、直衣の袖を絞りし人々には、今宵の歡曾も中々に忘られぬ思寢の涙なるべし。
驕る平家を盛りの櫻に比べてか、散りての後の哀れは思はず、入道相國が花見の宴とて、六十餘州の春を一夕の臺に集めて都西八條の邸宅。
君ならでは人にして人に非ずと唱はれし一門の公達、宗徒の人々は言ふも更なり、華冑攝※(「竹かんむり/(金+碌のつくり)」)の子弟の、苟も武門の蔭を覆ひに當世の榮華に誇らんずる輩は、今日を晴にと裝飾ひて綺羅星の如く連りたる有樣、燦然として眩き許り、さしも善美を盡せる虹梁鴛瓦の砌も影薄げにぞ見えし。
あはれ此程までは殿上の交をだに嫌はれし人の子、家の族、今は紫緋紋綾に禁色を猥にして、をさ/\傍若無人の振舞あるを見ても、眉を顰むる人だに絶えてなく、夫れさへあるに衣袍の紋色、烏帽子のため樣まで萬六波羅樣をまねびて時知り顏なる、世は愈※(二の字点)平家の世と覺えたり。
平家滅亡後を知る立場から、武家の人間たる平家が八条殿における華やかな遊びにうつつを抜かす様子を描写した文章。
美しさと無常を兼ね備えた名文だと思います。

ストーリー自体は単純で、重盛の部下であった滝口入道と横笛の悲恋物語と、平家滅亡に際して入道を頼って逃げてきた維盛を心を鬼にして追い返したのち自らも自害したという忠義物語の構成です。
古典的な悲劇ではありますが全編にわたり文章の勢いにゆるみがなく、きわめて「読ませる」話だと思います。
ただし、擬古文調になれていないといったい何を言いたいのかすら追うことが難しいかもしれませんが…。

京都にある滝口寺は、滝口入道ゆかりの地です。
一旦は廃寺となっていたのですが、本書がブームとなったために有志の人々が再興させたとのことです。
しかし残念ながら現代においては、滝口入道の物語自体が一般にはあまり読まれているとは言えません。
なぜなら、擬古文帳は現代人にとってはあまりにも遠く、しかも本書を現代文に直すとその魅力は大幅に減少してしまうからです。
そのためか、滝口寺は隣接する祇王寺(こちらも平家ゆかりの寺です)に比べて観光客も少なく、さびれているように思います。
今後も高山樗牛の「滝口入道」が今以上に読まれることがあるとは思えません。
いつの日か、本書も教科書に載るだけで誰も読まない作品となるのは惜しいものです。
  1. 2018/08/11(土) 23:32:28|
  2. ★★★★★
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グローバル資本主義と〈放逐〉の論理――不可視化されゆく人々と空間

著者のサスキア・サッセンの本は、「グローバル・シティ」を読んだことがあります。
極めて綿密に論理が組み立てられていて面白かったので、本書も本屋さんで見つけて読んでみることにしました。

本書では、一見それ自体は有害ではない技術革新によって生み出されたものが原因で、とくに貧しかったり力を持っていなかったりする周縁的な人々がさらに弱体化していっていることを主張しています。
もっともわかりやすいのは、GDPベースでは各国経済は成長しているにもかかわらず、貧富の差が激しくなり貧しいものはますます貧しくなっているということです。
とくに大企業の収益に対して支払う税金の割合が、過去と比較すると大幅に減少してしまっていることが示されています。
これはおそらくは、ネットワークの発達によりさまざまなものが国境を超えることが容易になった結果でしょう。
多国籍企業にとって、もっとも税金の安い国にビジネスを移動することが過去とは比べ物にならないくらい容易になりました。
この結果、税金の高い国からはビジネスが流出し、税金の安い国に逃避してしまうこととなります。
各国政府は税収を増加させるために税率をあげたいのですが、一方で企業活動がなくなってしまうとそもそも税収がまったく得られないというジレンマに陥ったため、減税競争に陥っているように見えます。

また、金融商品(デリバティブ)の発達によってあらゆるものが金融商品化された結果、投資家たちの収益が増大する代わりに一般の人々に対する収奪が激しくなったことが示されています。
これらの金融商品は非常に複雑な内容であるため、一部のごく限られた人々のみがその全貌を理解しています。
金融商品の開発は数学的な技術の発達によるものでありそれ自体は悪ではないのですが、技術が独り歩きすることにより収奪の道具と化してしまっています。

著者はこれ以外にも環境問題についても述べています。
しかし、個人的な感想としては、「グローバル・シティ」にくらべて各論の結びつきが弱いように思いました。
環境問題は特に「浮いた」内容で、本書の他の部分とのつながりが非常に薄いです。
弱者が虐げられているという点だけ見れば同一なのでしょうが、それだけですと単にこの世に対する危機感を漠然と述べただけのものでしかありません。
「グローバル・シティ」ほどの気合を入れたものではないのでしょう。
  1. 2018/08/11(土) 23:11:29|
  2. ★★★
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明治の文学

古本屋にて100円で購入した本です。
「月刊文章」の特別号として発行されたもので、単行本というよりもムックのようなものだと思われれます。
明治が終わってから30年近くが経過した昭和13年発行であることを考えると、現代から見た昭和を振り返るのと似たような感覚なのかもしれません。

明治文学といえば、坪内逍遥の言文一致に始まり、尾崎紅葉の硯友社、浪漫主義、自然主義、そして漱石鴎外というのが大雑把な流れです。
当然ながら本書でもこれらの作家は取り上げられているのですが、さらに深く今では半ば忘れ去られたような山田美妙や斎藤緑雨などにも章が割かれています。
さらには、当時の流行歌(「ノーエ節」「改良節」)や新聞社説なども取り上げられていて、当時は「文学」の守備範囲が今よりも広かったのがよくわかります。
今でこそ文学というとハイカルチャーな受け止められ方をしています。
一方で、二葉亭四迷が文筆家としての道を歩もうとしたときに父親から大反対を受けたというエピソードからも、明治のとくに初期は文学はまともな人間の仕事だとは思われていなかったのかもしれません。
そう考えると、文学と俗謡の親和性は今よりも高かったのでしょう。

本書には作家自身の日記などがふんだんに引用されています。
樋口一葉の文章と、それ以外の作家(北村透谷、高山樗牛など)とを比較すると、当時は男の書く文章と女の書く文章が全く異なっていたことがよくわかります。
「男もすなる日記といふものを…」という出だしで始まる「土佐日記」では、紀貫之は女性のふりをして女性の文体を通したのですが、一葉の文章も平安時代の日記文学にとてもよく似ています。
一方で男性の文章は漢文調の候文が主体で、どちらかというと高校で習う古文に慣れた私にはやや読みづらかったです。

今の本屋さんで入手できる文学史の本には書かれていないような、細かい内容が多くてとても面白いと思います。
雑誌の増刊という扱いから、あまり図書館にも所蔵されていないようですが…。
巻末に「明治の傑作小説短篇化」なるコーナーが設けられ、幸田露伴の「五重塔」や徳富蘆花の「不如帰」などが極めてコンパクトにまとめられていますが、「漫画で読める名作」の類の本をを思い出しました。
今も昔も、意外と読者の要望は似ているのかもしれません。
明治の文学|書誌詳細|国立国会図書館オンライン
  1. 2018/08/04(土) 21:42:55|
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趣味と研究とに基ける仏様の戸籍調べ

古本屋で見つけた、大正7年発行の本です。
「戸籍調べ」とありますが、戸籍帳の体裁をとっている節とそうでない節がばらばらに入り混じっていて、統一感があまりありません。
「趣味と研究に基ける」というタイトル通り、いち個人がコツコツと書き留めた雑記のような印象を受けます。
現代なら自費出版されたりするのかもしれません。

仏教はインドから中国の長い道のりを経て、日本に伝わりました。
その際、それぞれの経由地、および日本で土着の宗教とまじりあっているので、複数の神々や伝説的な人物、実在の人物などが統合されて仏さまが出来上がることが多いです。
そのため、仏さまの系統は極めて入り組んでおり、複雑化しています。
全く異なった存在でありながら同じ名前を持った仏さまがいたり、ある一つの土着の神から複数の仏さまが派生したり…。
日本にも本地垂迹なる考え方があるのですが、ここにおいても神と仏は一対一の対応ではなく、寺社によって関連付けが異なったりします。
本書では、著者が調べた限りの仏さまの由来について、手あたり次第に書き記したようなものです。

やむを得ないことではありますが、全く体系だった記載がなされていないのでとても混沌とした文章です。
スラスラ読み終えることができるのですが、頭には何も残りません。
面白いのは面白いのですが、やはり物足りなさを感じるのも事実です。
たまたま古本屋で見つけただけの本に多くを求めること自体が間違っているのかもしれませんが。
  1. 2018/07/26(木) 00:19:15|
  2. ★★★
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