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雑記+ブックレビュー

書評というほどのものはありません。読んだ本に絡めて、日々思うことなどを書いていこうと思います。

〈ニグロ芸術〉の思想文化史: フランス美術界からネグリチュードへ

もともと本書を購入したのは、タイトルの「ネグリチュード」の部分に興味を持ったからです。
劣等感を植え付けられた黒人が、自身の黒人性を誇るべきだとして作りだしたのが「ネグリチュード」という概念でした。
ネグリチュード運動についてはいくつかの本で断片的に読んできたものの、ちゃんと理解できている自信はありません。
少なくとも、極めて広い範囲に分布する黒人を一緒くたに「ネグリチュード」運動で扱うというのは雑に思えますし、実際にそういった指摘もネグリチュード退潮の一因だったようです。

本書では、フランスによる植民地支配の過程で「発見」された「ニグロ芸術」という概念が、その後どのような移り変わりをみせたかが述べられています。
フランスの美術界が、アフリカの未開部族による彫像を「ニグロ芸術」と呼んで広報活動を開始したのは20世紀初頭でした。
彼らの広報活動は純粋な美術的な愛好心だけではなく、自らの所有するアフリカ美術品の価格高騰を狙った戦略などもあり、「ニグロ芸術」について語る人々の思惑は一枚岩ではなかったようです。
当初は、植民地支配により純粋な「ニグロ芸術」が失われることを惜しむような論調だったのが、のちには黒人が西洋文化に触れることにより新たな「ニグロ芸術」を産み出すことにつながったというような論調に変化します。
これは植民地支配を正当化する意図も一部にあったようです。
その後、主に支配者たる西洋白人の側からだけ語られていた「ニグロ芸術」が、黒人知識人により自らの文化を誇る文脈で援用されるようになります。
黒人特有の「リズム」なるものをもって黒人の芸術的能力を強調し、のちにネグリチュード運動につながっていったそうです。

読んでいて連想したのは、最近の日本で流行している「クールジャパン」や「世界が感動した日本の文化」というような言葉です。
「ニグロ芸術」の概念は支配者たる西洋が黒人の文化を「慧眼にも」発見して高く評価することから始まり、その後黒人自身にその価値を再認識させるという経過をたどりました。
「ネグリチュード」運動の批判者が、ネグリチュードは結局は支配者側の言説にとりこまれているにすぎないと主張するのは極めて正当だと思いますが、今の「クールジャパン」関連の運動も全く同一のように見えます。
単に経済的な動機だと割り切ればよいのですが、この概念がナショナリスト的なものに転用されるのはとてもばかばかしく思えます。
歴史は繰り返すものなのでしょうか。

それほど難解な文章ではないのですが、前の文章をもとに次の議論を積み重ねていくような構成なので、一度脱落するとついていけないという緊張感があります。
私のような素人でも素人なりに読めるのですが…。
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  1. 2018/12/10(月) 23:53:35|
  2. ★★★★
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ギリシャ危機と揺らぐ欧州民主主義――緊縮政策がもたらすEUの亀裂

今ではイギリスのEU離脱の陰に隠れて日本では忘れられつつありますが、ギリシャの経済危機が一時期話題となっていました。
しかし、いつの間にか危機は脱したという雰囲気が広がり、今ではギリシャ危機について聞くことも少なくなりました。
ギリシャ危機がどうやって解決したのかを知ることができるかと思い、本書を購入しました。

ギリシャ危機というと、公務員の数が多すぎることと、彼らの年金が50歳から受け取ることができるなどといった、身の丈に合わない財政支出が大きな要因だということがよく言われます。
これに反して本書の著者は、ギリシャの政府としての支出はそれほど多くなく、むしろ収入があまりに低いことが問題だと主張します。
そしてその原因は、一部の支配層が税金を不当に安く払うだけで済ませられるような制度や、不透明な利権にあるとのことです。
ギリシャでは縁故主義が根強く、有利な職である公務員につくのも縁故によるところが多く、既得権益を得た少数の人間が裕福な生活を送るのに対し、一般の市民はEUの基準で見るとかなり貧しい部類に入ります。
この状態でIMFや欧州の債権団などがギリシャに緊縮財政を強いたことにより、一般市民の収入がより減少して内需が縮小したことにより、経済のマイナス成長がひき起こされてますます危機が深まりました。
本来、IMFや欧州債権団が行うべきは、非現実的な緊縮財政の強制ではなく、債権の放棄によりギリシャの利子負担を減らすことで再建を助けることであったと著者は言います。

これは、確かに一面その通りだと思います。
一方で、支配者層による公正でない蓄財を放置したまま債権を放棄することは、感情的には抵抗があるのも事実でしょう。
著者は、欧州で最も必要とされるのは連帯の精神であり、危機に陥った国に対する資金トランスファーの仕組みであると主張します。
これも、博愛主義に立ったとても素晴らしい主張なのですが、同じ国家の中ですら貧しい地域への援助は感情的な問題を引き起こしやすいのに、同じEUとはいえ他国に資金が流れていくことに対しては反対する市民も多いだろうと推測します。
正直言って、著者のいうことが実際にはどのようにして実現できるのか、あまり道筋が見えませんでした。
そもそも前近代的な縁故主義がはびこるような国は、EUのような経済統合に参加するのは時期尚早だったのでしょうか。

本書はそれなりに専門用語も使っているのですが、それとは別な意味で理解が困難な部分もありました。
以下、緊縮財政の一環として国内の賃金切り下げの効果について述べた場所です。
公的セクターの賃金は高いため、それは引き下げ後も絶対的レヴェルでは依然として民間セクターに比べて相対的に高い。
これに対し、対内切下げ戦略の最大の狙いである製造業部門での賃金引下げは、それほど達成されていない。
製造業の労働コストが10%強ほどしか低下していないのである。
ギリシャは確かに、対内切下げ戦略の下に賃金を急速にかつ強制的に低下させられた。
(中略)
この点は特に民間セクターにおいて顕著であった。
公共セクターの被雇用者は、縁故主義的な政党政治と緊密に結びついているため、かれらは危機後も政府により保護された。
民間セクターである製造業の賃金が期待ほど低下しなかったことを述べた直後で、民間セクターの賃銀が公的セクターより低下が激しかったと書かれています。
これは相矛盾する内容のように思えるのですが…。
本書の中にはこれに類するような、論理的に良くわからないところや言葉足らずで何が言いたいのかよくわからないところが散見されました。
それでも、まずは取りかかりとしてギリシャ危機について知るにはよい本だったと思います。
  1. 2018/12/03(月) 23:48:51|
  2. ★★★★
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世界の名著 63 ガンジー/ネルー

古本屋さんで見つけて100円で購入した本です。
約50年前に出版されたもので、当時の本にはよくあることなのですが文字がとても小さいです。
昔はこのような全集がとても流行ったようで、古本屋さんでもよく見かけますし私自身も子供のころ図書館などで見たような記憶があるのですが、実際にちゃんと読んだ人がどの程度いるのかははなはだ疑問です。
解説文など読むと、それなりに労力をかけて作られていることが多く、とてももったいない話ではありますが…。

インド独立に大きく貢献したガンジーとネルーの自叙伝が収められています。
ガンジー、ネルー、そしてパキスタン建国に貢献したジンナーの3人が、もともとインド国民会議派でともに行動していたのですが、考え方の違いからのちには別々の道を歩むようになった…というところくらいまでは知っていたのですが、それ以外は全く無知の状態でした。
ガンジーが若いころは南アフリカに滞在しており、当地の有色人種差別に反対する運動を行っていたことなどは、本書を読んで初めて知った次第です。

ガンジーの強烈なカリスマ性に惹かれて多くの民衆が彼の元に集まったのですが、ガンジー本人が極端な自然志向、理想主義を示したことが災いして、のちにネルーと対立することとなりました。
その要因の一つは、1922年の反イギリスの非服従運動中に一部の民衆が暴徒化したことをきっかけに、ガンジーが非服従運動の停止を宣言したことです。
ガンジーにとっては彼の思想の根幹たる非服従がわずかでも破られることが許せなかったのですが、ネルーにとってはこれは非現実的な理想主義であり、運動の妨げになるように見えたのです。
また、ガンジーは機械文明を拒否し、製糸なども基本的には手で行うべきだと主張したのに対し、ネルーは国際経済の中で生きていくには価格競争は避けられず、他国とわたりあえるような工業が必要だと考えたのです。
ガンジーはこれ以外にも完全な菜食主義を通したり、注射などの近代的な医療行為を拒否したりと、近代以前への指向性が見られます。
独立運動の時期には彼のようなカリスマ性はよいのでしょうが、実際に政権を握ったのちにはあまりにも世間離れしていてうまくいかなかっただろうなと思えます。
(ガンジーは独立以前に暗殺されてしまったし、それ以前に国民会議派から離れてしまったのですが…。)

昔の本ですが、翻訳は良好でとても読みやすいです。
本書の冒頭に収録されているかなり長い解説文もわかりやすいと思います。
繰り返しになりますが、もはやほとんど本書そのものを読む人がいないのはもったいないことです。
  1. 2018/11/25(日) 20:20:44|
  2. ★★★★★
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楽園と庭―イギリス市民社会の成立

本書は17世紀の清教徒革命前後におけるイギリスの庭園の変化をたよりとして、イギリスの市民の意識の変化を追ったものです。
日本の庭園は自然そのものを模したのに対して、西洋の庭園は幾何学的、人工的な美を持っていることが特徴だとよく言われます。
しかし、西洋の庭園といっても当然ながら時代、地域により違いがあり、本書によると清教徒革命以前の庭園は極めて人工的だったのに対し、その後は自然そのままを楽しもうという機運が発生したそうです。

日本の浄土式庭園と同様、西洋でも庭園は少なからず楽園を意識したものでした。
本書では、楽園を<島の楽園>と<山の楽園>に分類しています。
<島の楽園>は補陀落などのように海に隔てられた離れ小島に作られた楽園であるのに対し、<山の楽園>は桃源郷などのように山奥にひっそりと存在する楽園です。
いずれにせよ、下界の人間にはその存在を知ることすら困難であり、海や険しい山によりアクセスが閉ざされている空間です。
かつてのイギリスの庭園も、このように日常生活から隔絶された場所として作られたものでした。
楽園願望は基本において逃避願望である。
庭とは当初からこの逃避のヴェクトルを受けとめる小空間であった。
そして英国の歴史も一七世紀に入ると、政治情勢は緊迫し、反動として楽園のパラダイムは逃避への思考をいっそう顕著に見せはじめる。
それはこの社会的緊張の矢面に立つ、宮廷を中心とする支配階級が、作り、かつ語る、庭の一つの性格となって表われた。
庭園は、支配と逃避という相反する二つの欲望を同時に表したものとして、極めて人工的に作られたのです。
しかし、革命により支配階級が没落したのち、市民階級により作られた庭園は全く異なるものでした。
ところで一八世紀に時代が進むと、まったく新しい理念のもとに、まったくあたらしい庭園―――<自然風><風景式><英国風>などの名で呼ばれる―――が誕生する。
そしてその鍵語は、「多様な(ヴェアリアス)」となるのである。
単一の視点に統一されたバロック整形庭園の造形が、絶対王政の秩序願望の投射であったのに対し、多様なる風景への志向は、新興市民階級の自由と個人主義の記号であったのであろう。
現在、「イングリッシュガーデン」と聞いて想像するような庭は、このような市民階級の庭が近いでしょう。
これは、清教徒革命によりかつての整形庭園の多くは完全に破壊されてしまったというのもあると思います。
完全に整形された庭は、私自身はどちらかというと大陸的なイメージ、とくにフランスを思い出します。
(はるか昔に見た「去年マリエンバートで」という映画に登場した、異常なまでに幾何学的な庭が印象に残っているせいかもしれませんが)

私は植物そのものにはあまり興味はないのですが、庭とか建物などの空間は好きで、本書も面白く読めました。
30年以上前の本で当然ながら絶版なのですが、忘れ去られるにはもったいないような本だと思います。
  1. 2018/11/18(日) 22:47:52|
  2. ★★★★
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国際制裁と朝鮮社会主義経済

以前読んだ「タイ2011年大洪水―その記録と教訓」と同じく、アジア経済研究所の情報分析レポートです。
このシリーズはいままで30冊が刊行されていて、本屋さんで立ち読みする限りはどれも面白そうなのですが、その内容の性質上比較的早く店頭からなくなってしまうのでうっかりすると買い逃してしまいます。
本書は2017年8月発行なので、現在の文在寅大統領就任前の、最も北朝鮮情勢が緊迫していたころの内容が中心です。

本書を読んで、個人的によく理解できたのは、
  • 北朝鮮は過去に打倒された他国政権の事例を教訓としてとらえており、国際世界との協調を拒むのもこの一環である。
  • 日本をはじめとする経済制裁は北朝鮮には大きなダメージを与えておらず、むしろ近年は経済成長が著しい。
という2点です。

前者については、一例としてイラクの事例が挙げられます。
イラクは、湾岸戦争終結時に大量破壊兵器の不保持に同意し、西側諸国による査察を受けいれました。
しかしその後、査察の方法などをめぐって再び西側、主にアメリカと対立し、結局はアメリカからの侵略を受けることとなりました。
これは、いったん他国に譲歩したとしても、その後もいつ侵略を受けてもおかしくないということを示しています。
核兵器を含むすべての武装については、いったん廃棄してしまうと再武装は非常に困難です。
よって、北朝鮮にとっては、過去の教訓をもとにすると武器の廃棄を履行しないのは当然だといえます。

後者については、日本における北朝鮮のイメージが1990年代でストップしていることが、実態とのかい離の要因のように思います。
90年代には北朝鮮は、計画経済の失敗と相次ぐ水害により飢餓状態に陥り、経済は完全に崩壊しました。
しかしその後、従来の完全なる計画経済から、一部を自由経済的なものに移行した結果、急速な経済成長を遂げているようです。
また、最も経済制裁に積極的なのは日本とアメリカですが、両国ともにもともとほとんど貿易がないために、制裁による効果がほとんどないということもあります。
現在北朝鮮にとって最大の貿易相手国は中国ですが、やはり中国が本気で制裁しない限りは大きな効果は望めないのでしょう。
本書が発行されたのち、制裁が強化されて石炭が全面的に禁輸となりましたが、この効果がどの程度のものだったのかが気になるところではあります。

日本人の多くが興味を持っていながらも、その実態が理解しづらい問題です。
比較的安価でこういう本が市販されているのだから、興味のある人はもっと読めばいいのにと思ったりもします。
ただ、本書の最初に収められているのが、北朝鮮制裁の事実を淡々と羅列した極めて読みづらい文章なので、少し面食らうのではありますが…。
  1. 2018/11/18(日) 22:07:30|
  2. ★★★★★
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地方政治の保守と革新

以前、似たようなテーマの本で「革新都政史論」を読みました。
この本を読んだ時にはあまりよく理解できていなかったのですが、1960年代、70年代は革新系の政党の支援を受けた首長が大量に進出し、革新自治体ブームが起きた時期でした。
中でも東京都の美濃部都知事、京都府の蜷川府知事、横浜市の飛鳥田市長の3人はカリスマ的な人気を武器に長期にわたって首長を勤めました。
これは、高度成長期が終了した中で急速に変化した社会のひずみに対する異議申し立てが、中央権力と相対する革新首長の支持につながったものなのかもしれません。
しかし、美濃部は積極的な福祉政策が「バラマキ」とも言われてついに保守系の鈴木に破れ、蜷川は老齢による引退においても後継者を定めることができず、飛鳥田は社会党委員長への就任に伴い市長を辞職しました。
彼らが去ると同時に急速に革新自治体の勢力は退潮に向かい、再び保守系、官僚系の首長の時代がやってきたのです。

革新自治体の勢力が衰えた原因について、本書では次のように述べています。
革新自治体の自治への厳しい認識が欠けていた。
地方自治を常に政府支配の被害者的地位におき、自らの行財政努力を問うという自律性に欠けていた。
「そこでは、革新首長は住民と同様、政府の被害者であり、同時に政府権力に抵抗する英雄でもある。
抵抗の英雄は欠点と誤りを容認され、革新自治体の行政の停滞にたいする不満の目も政府に向けられる。
しかし、被害者のポーズは実は革新自治体自身が行政責任者であり、権力であることを逃れようとする『甘え』であることが今証明されようとしている。」
(上之郷利昭「革新自治体の影響と悲惨」『文芸春秋』昭和五〇年三月九四頁)
と批判されている。
そして、革新勢力が執政当事者となった場合には
「―――地方自治体は国と住民の間に存在する一つの中間権力である。
権力である以上、当然住民との間に緊張関係が生ずる。
住民パワーによって生まれた革新自治体といってもその例外ではない。
市民運動はしばしば反市政の動きをみせる。
まして住民の要求は多様であり、複雑な地域性をもち、時に強烈なエゴイズムの発露となる。
そこで飛鳥田会長は”決断”を強調したのだろうが、一歩誤ると住民の意志とはなれた独断専行になりかねない。」
(サンケイ「革新自治体」二三頁)
と批判されるように、革新自治体といえども権力装置であることを自戒していかなければならなかった。
とあるように、権力を批判する側では強力な武器となった市民との連帯も、権力側に立った途端にその効力を失うどころか逆効果に働くこととなったのです。

これは国政におけるリベラル系野党の盛衰ともよく似ているように思います。
1990年代に長らく続いた保守系政権を打倒して、自社さ連立政権の村山内閣が発足しました。
とくに社会党の伸長が著しく一種のブームを呈したのですが、まもなく社会党は議席を大きく減らして村山首相は退陣しました。
また、2000年代後半には民主党が大きく議席を伸ばして政権を獲得しましたが、こちらも数年間で勢力を大幅に後退させて、自民党政権へと逆戻りしました。
いずれも、既存勢力への不満からリベラル政党へ支持が移ったものの、その政権担当能力に幻滅が生じて急速に支持を失ったことによるものです。
権力の外側から批判することと、権力の中枢に立つことは全く別の能力が必要なのですが、長らく権力から離れていたリベラル勢力は権力の中枢における経験を積むことができず、極めて長い間同じような伸び悩みを繰り返しているように見えます。

革新系の勢力が重視することの一つに、市民の政治への参加というものがあります。
かつてのムラ政治では一部の地域ボスがすべてを取りしきり、一般市民はこれに従うだけでした。
市町村議会議員は地域の名士として扱われ、住民は盲目的に彼らを支持するしかなかったのです。
これに対して革新系の勢力は市民の声を直接行政に届けることで、密室での政治を打破しようという活動を行っています。
しかし、保守系の勢力にとっては、彼らは選挙で多数派を確保している以上、市民からの支持を得ているという大義名分を持つことができます。
また、わざわざ手間をかけて自ら声を上げなくとも、議員たちがそれなりに地域に利益を誘導してくれるので、それに従えばよいと考える人も多いです。
結果的に、少数派である革新系の勢力が大きな声を上げ、多数派の保守系勢力は静かにやりたいことを通すということが多く起きています。
これはやむを得ないことなのでしょうが、革新系がノイジーマイノリティとみられて印象が悪くなる一因のようにも感じています。

本書は、「革新都政史論」とは違って相当公平な目で保守、革新両勢力を評価しているように思います。
極めて分量が多い力作なのですが、そのぶん読むのにはそれなりの根気が必要です。
文章自体は比較的わかりやすいとは思います。
  1. 2018/11/14(水) 22:52:16|
  2. ★★★★
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アジアの旅―風景と文化

スペイン出身の歴史哲学者ディエゴ・エル・コラールによるフィリピン、日本、インドの旅行の記録です。
単にどこに行った、何を食べた、何を見た、というだけのものではなく、各地の歴史、文化についてかなり綿密に考察を行っているのですが、文章がかなり晦渋で理解するのに苦労する箇所も多々見受けられます。
著者がスペイン人ということで大航海時代へのノスタルジアがかなり強く感じられるのも本書の特徴です。
スペインアメリカ諸国のホテルでは、受付や門番は実にしばしば古風なことばで、艶の出たスペイン語を話すものだが、そのおかげで旅行者は空港やヒルトン・ホテルの技術一点張りの味気ない近代主義から解放され、その市の古いイスパニア時代の中心地を訪れるのに格好な心構えができるのである。
ところがマニラのどのホテルでも、門番やボーイの話す言葉はせいぜい、英語とタガーロ語とで二重に蝕まれたスペイン語でしかない。
一九六一年の十一月初旬、マニラの町を歩いた旅行者なら誰でも一歩あるくごとに、公園や大通りを図々しく塞いでいた選挙戦の大看板に行き当たったことだろう。
そして目にうつるそれらの内容の混沌さに当惑させられたにちがいない。
殆どどの姓名も純イスパニア語の響きをもっていたのに、そこに画かれている顔のかたちは典型的にフィリピン土着のものであり、文字は英語で書かれていた。
そして投票有権者たちに向けた立候補者たちの消えざる微笑のなかには、アメリカ合衆国の上院議員の微笑にも劣らぬ、完全無欠の歓喜と信頼が輝いていた。
このような上院議員の画像は、その大きな選挙看板の後ろに聳え立った商社の近代ビルディングの外観によって、裏書きされているように見えた。
それらのビルディングの間を、クライスラーやゼネラル・モータースのマークを付けた高級車が、海を埋立てた広い大通りを疾走していた。
またその光景をうずめている群衆に関しても、旅行者はただ純粋なスペイン的雰囲気からはあまりなる距離を感ずるのみであった。
その隔絶はアンデス山やカリブ海のどんな町におけるよりも甚しいものだった。
マニラでは混血の容貌のなかにイベリア的な線を見出すことは稀であるし、街でまずいスペイン語を耳にすることすら殆どない。
この年はほんの半世紀あまり前まではスペインの町であったにもかかわらず、そのかつての首府のこだまはもはや、チリーのサンティァゴやボゴタの場合よりも遥かに廖々として聞きとることはできない。
古き良きコロニアルなスペインと俗化して騒々しくなったアメリカとの対比。
これ以外の箇所でも本書には、大航海時代のスペイン人航海士や宣教師たちの勇気を称賛する場面が何度か現れます。
ただ、かつての悲惨な奴隷貿易を考えると、とても著者のように無邪気にスペイン人を礼賛する気にはなれないものですが…。

日本については、東京、別府、宮島、松島、奈良についての記載がみられることから、日本を相当長い間かけて廻ったことが想像されます。
その中で著者は日本の文化の特性について様々な考察を行っており、そのうちのいくつかは的外れに思えることもあります。
しかし、全般的にどれも新鮮に思えるような内容です。
中でも、日本人は東西南北を方向の指示するのによく使うということが挙げられます。
タクシーの乗客は東京の街々のなかを次のような調子で、運転手を案内しながら行く。
「もっと北の方へ、もっと北へ、そしてそこの交叉点で東の方へやってくれ。」
いくつも混み入った庭や廊下を通りぬけて、その家の最上の室に入ると、主人は客にむかってこう言うのが普通である、
「どうぞお座り下さい、その南側がお客様の場所ですから。」
あるいはまた夫は妻にこんな風に言うことがある、
「その絵は棚の前じゃよくない、北側に掛けてくれ。」
すると妻君は、いとすなおに、そのいい加減に指示された場所に何んの戸惑うこともなく、まるで羅針盤の正確さを眼中に秘めているかのように、その額を掛けるのである。
これに反して日本人は、あらゆる生活分野においてヨーロッパ人の身についている≪右、左≫という範疇を使うのに一種の不安定さを感ずるようである。
このことは疑いもなく、西洋の文化が東洋のそれよりも一層人体的であり合理的であって、それだけ自然から離脱しているために違いない。
最後の文が「疑いもない」ことなのか、または日本人がそれほど他国と比べて東西南北をよく使うのかについては真偽のほどを判断できないのですが、面白い着眼点だと思います。
私はこの東西南北の指示が非常に苦手で、建物の南側と言われてもどちらを指して言うのかが全く分からないことが多々あります。
だからといって右、左は絶対的な方向指標とはならないので、東西南北を使わざるを得ないようにも思うのですが…。
  1. 2018/11/10(土) 09:23:01|
  2. ★★★
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アフリカ革命に向けて

黒い皮膚・白い仮面」で有名なフランツ・ファノンの著作集のなかの一冊です。
「黒い皮膚・白い仮面」では黒人が黒人であることそのものを恥と考え、自らの黒人としての特性を「漂白」して白人化しようとする狂おしい努力が描かれていました。
一方で本書は、アルジェリアをはじめとしたアフリカ植民地の独立に向けたアジ演説をまとめたようなものであり、「黒い皮膚・白い仮面」に見られたような綿密な理論は見られません。
雑誌に掲載された短い文章がたくさん掲載されているのですが、どれも似たような内容のアジ演説であり読んでいて単調さをまぬかれることはできないように思います。
これは、厳しい情勢においても民衆の気持ちを保つために常に鼓舞するという、本書の目的を考えるとやむを得なかったのでしょう。

本書には、白人、マルチニーク島をはじめとするフランス海外県、そしてアフリカのフランス植民地という序列が述べられています。
これにより、マルチニーク島の黒人はアフリカ黒人を蔑視し、フランス本土の白人に対して憧れの気持ちを持つというねじれた構造が発生していました。
今でも北アフリカのアラブ人は南アフリカの黒人に対して差別意識を持つと聞きますが、本書で特に手厚く扱われているアルジェリアにおいてはどうなのかが気になるところです。
本書に掲載された文章のほとんどは1950年代後半に書かれたものであり、当時はアフリカ諸国はほとんど独立していませんでした。
ファノンは、自らの本拠地であるアルジェリアをはじめとしたアフリカ諸国の独立に向かって尽力しましたが、現在の汚職にまみれたアフリカを見てどう思うのでしょうか。
アルジェリアは独立後、初代大統領となったベン・ベラがクーデターで軟禁された上にその存在を黙殺され、そののちには抑圧的な体制が現在まで長らく続いています。
アルジェリア以外のアフリカ諸国も必ずしも民主的な体制が整っておらず、リベリアのように悲惨な権力争いが続いた国もあります。
本書を読む限りにおいては、ファノンは民衆に向かって独立こそが未来への第一歩であるように説いているのですが…。

本書の訳者3人は、全員東大の学生紛争で逮捕、拘留された経験の持ち主であり、翻訳作業の間にも拘置所に連行されたこともあるようです。
本書のアジ演説的な日本語は、もしかしたら彼らの翻訳によるものが大きいのかもしれません。
  1. 2018/11/02(金) 23:15:54|
  2. ★★★
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水源―The Fountainhead

本書のうたい文句によると、1943年にアメリカで出版されて以来現在も読み続けられている超ベストセラーだそうです。
世間から迫害される孤高の天才建築家ハワード・ロークと、その少数の理解者、そして大衆を操ってロークを無力化しようとする勢力の戦いの物語です。
A5版で1000ページを超える長大な小説なのですが、ストーリー自体は比較的単純なように思います。

登場人物には明確なランク分けがなされています。
最上位は主人公のハワード・ローク。
その次に来るのは主人公の恋人のドミニクや、巨大な新聞社の社長ワイナンドです。
彼らは、ローク以外の人物には全く弱みを見せませんが、ロークの偉大さの前に限っては無力です。
その次には、大衆を味方につけてロークを無力化しようと試みる勢力があり、最下層には操られるがままの愚かな大衆がいます。
極めてわかりやすい構図です。

正直言って、分厚いわりに内容が薄くて読むのがやや苦痛に感じられるほどでした。
ロークの非現実的なほどの超人ぶりは、まるでハリウッド映画スターのようです。
今時、漫画でもこんな極端なキャラクター付けは見られません。
本書が70年以上前の作品だからやむを得ないのでしょうか…。
当時はベストセラーだったのでしょうが、今となったらとくに読む価値は感じられない本だと思います。
または単純なヒーローものが好きなら、楽しめるのかもしれません。
  1. 2018/10/28(日) 19:27:45|
  2. ★★
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無名草子

鎌倉時代初期の文学評論のような作品です。
83歳の老尼がたまたま見つけた風情ある屋敷におじゃまして、そこで若い女性たちが文学作品についてあれこれ感想を語り合うのをそばで聞くというかたちで物語は展開します。
後半三分の一くらいは、著名な女性たちの人生についての論評へと議論は進展します。

長らく忘れ去られていたような状態だったのですが、江戸時代になって散逸物語の研究目的で見直されるようになった作品です。
たしかに、本書で取り上げられている作品は「源氏物語」「狭衣物語」「夜の寝覚」「とりかえばや」を除いてはすべて散逸物語であり、資料的な価値は高いのだと思います。
源氏物語に関する議論は、まるで長編漫画のファン同士が「この場面は最高」だとか「このキャラクターが大好き」だとか、お互いに感想を言いあっているかのようです。
現代から見ると源氏物語は文学作品のような扱いですが、当時としては大人気のエンターテインメント作品だったのでしょう。
そして、源氏物語があまりにも優れていた一方で、これに匹敵する作品がほかになかったというのもよくわかります。
本書でも源氏物語を語る分量に対し、それ以外の作品への言及は比較的少ないです。

散逸物語について書かれた箇所については、普通に楽しんで読むには向いていません。
なぜなら、読んだことのない本の評論は、登場人物の固有名詞が現れてもよくわからず何が何やらちんぷんかんぷんだからです。
元の作品を知っていたら面白いであろうと思われるのですが…。
  1. 2018/10/17(水) 00:28:16|
  2. ★★★
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希望の国のエクソダス

私にとって村上龍はこの本が初めてです。
有名な作品なので電子書籍化されているかと思ったのですが、紙の本しか出版されていないのは意外でした。
少し前の小説はまだまだ電子化が進んでいないのかもしれません。

本作品が雑誌に連載されていた20世紀の末ごろは、バブル崩壊後の不況が永遠に続くかと思われるほど長い停滞でした。
2010年代になってアベノミクスにより株価が上昇するまでは、永久に日本はこのまま沈み続けるのではないかと思われたものです。
本作品もこの閉塞感を土台としており、緩やかな崩壊に直面して全くの無策である大人に対して中学生たちが反乱を起こし、小さな独立国家のようなものを作って世界と渡り合うというような物語です。
作品を作るうえでさまざまな分野の専門家に取材を行ったようで、そのためかおそらくは当該の分野の専門家がみても論理に破たんがないような内容になっていると思われます。
(その成果は「『希望の国のエクソダス』取材ノート」として出版されています。)

日本という国を見限って国の中に小さな独立国家をつくるという点においては、かなり昔に読んだ「吉里吉里人」を思い出します。
本作品と「吉里吉里人」両方に共通するのは、日本の政府当局者が無能ぞろいだということです。
六月七日の午後、日銀が市場から資金を吸収してしまったために短期の金利が四〇パーセントという異様な上昇を示した。
東証では短期資金がショートしそうな銀行とその取引先企業の株価が暴落した。
政府と日銀はアメリカ財務省証券を担保にして五〇〇億ドルのユーロダラーを調達すると発表した。
そのニュースを聞いて、もうだめだ、と堀井が言った。
「どうしておれたちの政府には度胸がないんだろう。
一兆ドルくらい集めないと意味がないよ、こういう時は。
どうして中途半端な手数で済まそうとするんだろう。」
ここで登場する「堀井」は、主人公の関口が寄稿する雑誌の編集部に出入りしている経済ジャーナリストです。
無能な官僚に対して、一介の有能な市民が的を射た指摘をするというステレオタイプな場面です。
また中学生たちが作った国は理想郷のようです。
ほとんど問題らしい問題がありません。
いくら設定が練られていたとしても、こういうご都合主義的な展開を見ると一気に物語の真実味が薄れます。

本作品に対して、中学生がこんなことをできるはずがない!という批判は的外れなように思うのですが、それ以外の部分で物語の展開に説得力がないのが最大の問題点のように思いました。
テレビの2時間ドラマを連想します。
  1. 2018/10/14(日) 23:25:00|
  2. ★★★
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エロマンガ表現史

本屋さんで見つけて買おうかどうか迷っていたところに、hontoで太田出版書籍の40%オフセールがあったので電子書籍で購入したものです。
本屋さんでぱらぱらと立ち読みしていたところ、「はじめに」の箇所に下記のような文章を見つけました。
エロマンガは作家が「表現」を実行する場でもある。
男女の性愛、セックスを物語の中心において描かれてきたジャンルでもあるが、補集合的に言えば、その制約以外は何をしてもいい、ということでもある。
歴史的に見てもエロマンガは、時に前衛的で、進歩的、そして革新的な表現に満ちあふれていて、あまたの新しい表現が生まれては消えていったマンガ表現の最前線であり、また実験場でもあった。
かなり昔に読んだ「「日本製映画」の読み方」を思い出します。
手元に今この本がないので引用ができないのですが、この本には日本の映画監督の多くがピンク映画出身であること、そしてピンク映画はエロさえあれば何をやってもよいために映画表現の実験場として最適であったことが書かれていたと記憶しています。
今となってはピンク映画はかなり衰退してしまったのですが、エロマンガはまだまだ勢い盛んです。
かつてのピンク映画が持っていた前衛的な雰囲気をエロマンガが持っていたりするのかなと思ったりしました。

本書では、エロ漫画において産み出されてきた新たな表現技法についてそのルーツを探り、発明者が明らかになっている場合はその人物に対してインタビューを行っています。
乳首残像、触手、断面図、アヘ顔、そしてエロマンガ特有のオノマトペなど…。
「うろつき童子」という触手表現を多用したエロマンガ原作のアニメは海外でも有名になり、著者の前田俊夫は「テンタクルマスター」としてアメリカのマニアの間では有名だそうです。
これ以外にも、エロ漫画家の新堂エルは米国生まれの米国育ちだったのですが、エロ漫画を描くために日本に来てエロ漫画家として成功したとのこと。
米国に比べて規制がある意味でゆるい日本は、エロマンガには適した市場なのかもしれません。

本書のタイトルは「エロマンガ表現史」なのですが、個々の技法にこだわりすぎているようにも思いました。
たとえば、印象派といえば点描がすぐに思い浮かびますが、実際は点描そのものは印象派の必要条件でも十分条件でもありません。
時々刻々と移り変わる戸外の光を描写することを志向した結果、その方法の一つとして点描を用いたのであり、点描は手段に過ぎません。
本書で扱われているさまざまな技法についても同じことがいえると思います。
しばしば本書には「エロマンガのハードコア化」なる言葉が現れるのですが、これについては明示的に解説された箇所はないように思いました。
可能なら、これらの大きな流れを描写する中で生まれてきた手段という位置づけで解説した方が、それぞれの技法が産まれた背景についてより総合的な理解ができたように思います。

どちらかといえば、個別技法の羅列に近いところもあり、このあたりはエロマンガそのものに強い興味がないと読んでいてもあまりピンと来ないように思いました。
詳しい人が読めば、もう少し得るものがあるのかもしれませんが…。
  1. 2018/10/09(火) 21:36:32|
  2. ★★★★
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日本の長い戦後――敗戦の記憶・トラウマはどう語り継がれているか

著者の橋下明子は子供のころからロンドンや東京などで暮らし、その後ロンドン大学卒業後現在はアメリカの大学で教授となった人物です。
本書ももともとは英語で出版されたものを、翻訳家が日本語に訳しなおしたものです。
おそらくは、原書では日本の読者にとっては当然すぐにわかるような事項についても注釈があったと思われるのですが、日本語版ではそれらは省かれています。
(たとえば、「ドラえもん」の「のび太」については日本人に対しては注釈は不要でしょう)
もともと著者が日本語話者であるためか、極めて読みやすい文章です。

本書では、現代の日本人が第二次大戦における敗戦を語る基本的な姿勢を3つに分けています。
第一の類型は、戦争を勇敢に戦った英雄の物語としてとらえるものです。
これはナショナリスト的な語りであり、かつての戦争は避けられなかった、またはある種の正当性を持っていたとか、現代日本の繁栄はかつて亡くなった方々のおかげであるという考え方に代表されるものです。
第二の類型は、日本人が戦闘や空襲、苦しい生活などの犠牲となったという被害者的なとらえ方です。
無能な政府によって推し進められた戦争により、罪のない末端の兵士は悲惨な死を迎えることとなり、一般人も原爆をはじめとする市民への攻撃により恐ろしい目に遭ったという考え方です。
第三の類型は、日本人がアジアの他の国の人々に対して侵略、搾取、暴力などに代表される加害者としてふるまったというものです。
第一と第二の類型は主に自国へのみ目が向いているのに対し、第三の類型では他国に対して自国が与えた影響を重視します。
これは見事な分類の仕方だと感じました。

日本においてはよく右派と左派の政治的な対立が報道されます。
右派は、例えば集団的自衛などにも参画できるようにすることで自衛隊の権限を徐々に広げ、他国と同等の自衛権を持つ国を志向しているといわれます。
一方で左派は、かつての戦争で国民が受けた苦しみを忘れてはならないと主張し、戦争を二度と起こさないような歯止めとしての憲法を重視するといわれます。
これらは上記でいう第一と第二の類型に相当しており、加害の歴史に対する視線は極めて弱いものです。
実際、反戦を主張する人々も多くは、「自らの子供を戦争に送るようなことがあってはならない」とはいうものの「他国民を蹂躙した過去を繰り返してはならない」という声はそれほど強くありません。
日本全体が敗戦という経験を経て、被害者意識に染まったことが原因だと思われます。
右派はその被害者意識が主に他国に向いているのに対し、左派は日本政府上層部に向いていることのみが異なっています。
よって、一般市民たる自らが加害者となりうるなどとは「ゆめにも」思っていないように見えます。

本書では取り上げられていませんが、従軍慰安婦に関する報道の正否がよく話題となります。
右派は慰安婦報道はでっちあげであり、東アジアの国々が政治的にこの話題を利用しようとしているという被害者意識を持っています。
一方で左派は、慰安婦は当時の政府の「お偉いさん」が推進したものであり一般市民が犠牲者となってしまったという考え方を行い、他国の一般市民と自らを同一視することでこちらもまた被害者意識を持つことになります。
もちろん、現在存命の人々の多くは直接は従軍慰安婦にはかかわっていないのですが、自らと深くかかわりあいのある人が従軍慰安婦を積極的に推進しただとか、またはさらに直接的には従軍慰安婦を利用したとかいう可能性はほとんど語られません。
鋭く対立しているように見えるのですが、結局は自分自身は加害者の範疇の外に置くという点で、無意識のうちに同盟関係が結ばれています。

個人的には、右派左派いずれも、議論の相手を無条件に悪とみなす姿勢そのものに危険を感じます。
みずからを安全地帯に置き、相手を鋭く非難するとうなメンタリティの持ち主は、情勢が変化すると罪の意識の全くない加害者に容易に転換するもののように感じます。
本書はとてもフラットで公平な記述がなされているので、本書を読んだ人が私が感じたようなことを感じるかどうかはわかりません。
しかしながら、どのような意見を持った人にとってもある種の思考の整理ができるようなとても良い本だと思います。
  1. 2018/10/02(火) 22:59:56|
  2. ★★★★★
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目まいのする散歩

武田泰淳の最晩年の随筆です。
彼の作品は、戦争×文学のシリーズで「ひかりごけ」、「「ゴジラ」の来る夜」などを読んだことがありますが随筆は初めてです。

本書のタイトルの「目まいのする散歩」というのは、文字通り散歩中に目まいがするという意味です。
糖尿病による脳梗塞で倒れて入院したあとなので、体の自由が利かずに散歩程度の軽い運動でも目まいを起こしてしまうのです。
それ以外にも彼は複数個所にガンも患っており、本書の出版後ほどなくして亡くなることとなります。
本書ではこの「現在」時点の表題作から始まり、その後かつて著者の娘がまだ幼児だったころを描いた「あぶない散歩」などを経て、手術直前のもはやかなり体調が怪しくなった時期を描いたと思われる「安全な散歩?」に帰ってくるという構成。
まるで自らの死期を悟っているかのような並びだと思います。
実際、もうながくは生きられないことはよくわかっていたのでしょう。

すでに著者は自ら文章を書くこともできないので、口述筆記にて妻にペンをとってもらっています。
一方で内容は、とくに若いころを思い出したくだりでは妻の武勇伝?のようなものも多く含まれており、本人に本人の恥のようなことを書かせるのはよほど信頼があついのか図太いのかどちらかだと思います。
主に妻のことを記した「鬼姫の散歩」には
この原稿は、当の彼女が筆記しているくらいだから、プライバシー問題は発生しないと思う。
という注釈とともに、かなり赤裸々に過去のできごとが書かれています。
夜更け、店がひけた後、酔払った彼女が、焼け跡の空地のごみ箱の上にのって動こうとしなかったことがある。
(中略)
しがみつくようにごみ箱の上にのり、何やら罵りわめいている彼女をひきずりおろし、私は、深夜の神田街を歩いていく。
彼女の髪は黒く長く垂れていたので、私は、その髪をひっつかんで歩いたような記憶がある。
(私が、ひっぱってと口述すると、彼女は、ひっつかんだのだ、といって訂正した。)
これだけを読むと、妻も嫌がらずにむしろすすんでこの口述筆記に参加したように見えます。
なかなか得難い関係性だと思います。

全体的に不思議な感じの文章で、自由にとくに技巧的なまとまりを志向しているように見えない文章がながらも、内容にはまとまりがあり極めて読みやすいです。
口述筆記でここまでわかりやすく文章がまとまるものかと思いました。
(あとで推敲を入れているのかもしれませんが。)
文筆家として長年を過ごした技を感じさせられる見事な文章だと思います。
  1. 2018/10/02(火) 22:13:38|
  2. ★★★★
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生徒会の周年 碧陽学園生徒会黙示録

完結したと思われた「碧陽学園生徒会黙示録」のシリーズの続編です。
シリーズ10周年を記念して戻ってきました!とのことですが、中身はさまざまな販促特典として書かれた短編の集合体+一部書き下ろしというものです。
書き下ろしは単体で見てもだいたい内容が把握できるのですが、販促特典のほうは「おまけ」だけあって本編がないとよくわからないものもあります。
私も全編一度は読んだのですが、さすがにマイナーな登場人物までは全員記憶に残っているわけではなく、読んでいても混乱することが多かったです。
あとがきを見るに、著者本人でさえも書いたことを忘れているような代物も相当数あったようです。

シリーズの熱狂的なファンならともなく、そうでなければ無理して読むようなものではないと思います。
コレクターズアイテムといってもいいかもしれません。
  1. 2018/09/24(月) 23:18:48|
  2. ★★★
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北爆の下―ベトナムー破壊対建設

本田勝一といえばベトナム戦争ルポを連想します。
本書は数多く出版された本田勝一のベトナム戦争関連書籍のうちのひとつです。
著者がベトナムに滞在したのは1967年なので、今から約50年前のことです。
私が中学生のころ、社会科の授業で「第二次世界大戦から50年」とよく言われていたのを思い出します。
今のベトナムの10代の学生にとってのベトナム戦争は、私にとっての第二次世界大戦くらいの距離感なのかもしれません。

本書の前半で取材されていた南ベトナムを実質的に支配していたのはアメリカ軍でした。
彼らの軍事行動は莫大な費用を使いながらも必ずしもうまくいってはいませんでした。
よく知られているように、現地人に対する無意味な虐殺も相当な数行われたようです。
本書でもこれを反映して、米軍の行動に対する批判的な記述が目立ちます。
一方で、南ベトナムでゲリラ活動を行っていた解放戦線、いわゆる「べトコン」に対しても無条件に好意的な記載がなされているわけでもありません。
どちらも民衆に対してある時は略奪者になり、またある時は庇護者として働いていたようです。
内戦下における典型的な構図だともいえます。
この点においては、著者の記載はバランスがとれているように見えました。

一方で後半で取材している北ベトナムでは、基本的に著者はベトナム人民軍に好意的な態度をとり続けます。
この原因の一つとして、南ベトナムでは比較的自由な取材が許されていたのに対し、北ベトナムでは人民軍のシナリオに沿った取材のみが許されていたことがあると思われます。
当時の米国も清廉ではありませんでしたが、すくなくとも南ベトナムではある程度の報道の自由は保証されていました。
そのため、戦争がうまくいっていないさまがありのままに取材者に伝わりました。
北ベトナムでは取材が厳しく制限されていたため、問題がありながらも理想に近い国家としての北ベトナムが巧妙に演出されていたようです。
情けないことに本田勝一は完全にこの罠にはまってしまったように見えました。
私は仕事がら、重要人物による自社の見学をアテンドした経験があるのですが、この時も自社のよい部分だけをうまく切り取って見てもらうこととなります。
多くの場合、見学者は自社に対して良い印象を持って帰っていくのですが、アテンドする側としては内心は非常に複雑なところがあります。
著者はプロの記者なのですから、もう少し警戒感を持ってもよかったようなものですが…。

もう一つ感じ取れるのは、素朴なベトナム民族に対するロマンティックなあこがれです。
これは、近代的な米国人、または日本人への対概念として描かれています。
古き良き知恵を持ったベトナム民族による不屈の精神が、先端技術により堕落した米国人、日本人を打倒するといった世界観です。
これは大東亜共栄圏を推進した旧日本軍の中枢にいた人々と同種の思考回路に見えるのですが、当人はこれに気付いていないようです。
私は個人的には当時の新左翼の人々に強い不信感を抱いているのですが、著者に対しても同じような印象を受けてしまいました。

内容についてはどうかと思うことが多かったのですが、本書の中身としては写真が多くて読んでいて面白かったのは事実です。
  1. 2018/09/23(日) 23:07:09|
  2. ★★★★
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サイキス・タスク―俗信と社会制度

金枝篇」で有名なフレイザーによる著書です。
「金枝篇」に興味はあるのですが、さすがにあまりにも大部で読むのにハードルが高いと思っていたところに、古本屋で本書を見つけて購入しました。

本書の主張は下記4つだけです。
  1. 多くの俗信は社会的秩序の制定と維持に寄与していた。
  2. 多くの俗信は私有財産の保護に寄与していた。
  3. 多くの俗信は性的道徳の規律を保つことに寄与していた。
  4. 多くの俗信は人命尊重に寄与していた。
たとえば1の例でいうと、首長には強大な魔力のようなものが備わっており、これに逆らうと恐ろしい目に遭うというような俗信が信じられていたことを示します。
これにより、共同体における反乱が抑制され、社会的秩序が保たれるというものです。
同様に、人のものを盗んだり、性的な逸脱を行ったり、人を殺したりすると不思議な力で罰せられるという俗信がさまざまな民族の間で信じられていたことが示されます。

そして、この主張を裏付けるため、世界中から膨大な量の俗信の例が羅列されています。
あまりにも例が多すぎるため、ともすれば無秩序に見えてしまうくらいの量です。
著者の主張と合致する例を数百単位で示すことでその正しさを補強しようというものですが、通読するにはあまり向いていません。
これは百科事典的な使い方をするべきものなのかもしれません。

聞くところによると、「金枝篇」も同様に膨大な実例が羅列されているとのことです。
これは学問というよりも、博物館的な資料収集に近いように思います。
  1. 2018/09/22(土) 22:48:42|
  2. ★★
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太平洋に於ける民族文化の交流

古本屋さんで100円で購入したものです。
まさに太平洋戦争の真っ最中の1944年の発行というだけあって、内容は戦時色が鮮明です。
人類が自然民の状態の時期から長い間に亙って移動に使用した経路は謂はば天下の公道である。
海であらうとも、陸であらうとも、其の重要性は古今を通じて変わらぬものである。
今日は飛行機も出来たし、汽船も出来て、一見最早太古からの公道は不要に帰したかの如く見へる。
然し大東亜戦の行はれつつある状態を判ずると、要するに戦争の進行は此の民族通路の遮断或は争奪を主として行はれつつある。
此の結果から逆に判断しても、民族移動路は現代戦争に於て如何に重要なるものかが分る。
「太古からの公道」は、陸路であれば地形的に人の通行が容易なルートであるし、海路であれば陸地と陸地の距離が比較的近いことが多いので、飛行機の航続距離や火器の射程距離などを考えるとそういった場所が重要になるのは当然といえば当然のように思うのですが…。
自らが過去研究してきた考古学知識ととロマンティックな大東亜共栄圏に対する思いが絡み合い、現代から見ると典型的な「トンデモ本」的な内容となっています。

それでも第一章はまだ本人の業績によるものなので読んでいてもいくばくかは面白いのですが、第二章、第三章は過去の資料まとめでしかなく、あまり読む価値を感じられませんでした。
第二章は、主に江戸時代に書かれた民俗学的な文献の紹介です。
当然ながらその内容は間違いが多く、まるでプリニウスの「博物誌」を思わせるような奇想天外な生き物が登場したりもします。
これらについてひとつひとつ紹介しており、研究者にとっては有用な文献かもしれません。
しかし私のような一般人にとっては、さまざまな文献の羅列を見てもその細かな違いを感じ取ることは難しかったです。
第三章は、こちらも江戸時代に漂流して偶然外国を見聞した人々が書いた本をレビューしたものです。
こちらも完全なる羅列でした。

大仰なタイトルながらも、内容は極めて薄いと言わざるを得ません。
著者は若いころには優秀な病理学者だったようですが、のちに趣味の考古学にのめりこんでからはかなり奇妙な思想を持つに至ったようです。
本書もその奇妙さを感じるにはよい本かもしれません。
  1. 2018/09/20(木) 20:38:33|
  2. ★★★
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音 (百年文庫)

ポプラ社から出版されている、短編集シリーズの中の一冊です。
このシリーズは有名な作家が多く取り上げられているのですが、収められている作品は必ずしもその作家にとっての代表作ではありません。
むしろ、かなりマイナーな部類に入る短編を選んでいるように見えます。
本書には幸田文、川口松太郎、高浜虚子の短編が収録されているのですが、とくに高浜虚子の散文は初めて見たので新鮮でした。

「音」をテーマにした一冊なのですが、三作品ともその「音」は控えめで、静かな中に染み入ってくるような音です。
幸田文の「台所のおと」では病床にある夫が妻の台所での料理の音を聞き、川口松太郎の「深川の鈴」では内縁の妻が連れ子が起きたらわかるようにとつけた鈴を、深夜に別の部屋から聞きます。
中でも特によかったと思うのは高浜虚子の「斑鳩物語」にて、出張先の奈良の旅館から夜聞く機織りの音とその最中に口ずさむ歌です。
パターン化されてはいますが旅情を感じさせるものだと思います。
小説という媒体では、騒音とか大音量などは映画と違ってなかなか伝えがたく、このような小さいながらも印象的な音のほうが取り扱うのに適しているのかと思いました。
  1. 2018/09/15(土) 09:17:23|
  2. ★★★★★
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男性と女性 移りゆく世界における両性の研究

アメリカの女性文化人類学者マーガレット・ミードの著作。
彼女は「菊と刀」で有名なルース・ベネディクトの弟子なのですが、ベネディクトも女性文化人類学者でした。
ミード本人はサモアやパプア島におけるフィールドワークの業績で知られています。
ただし、私自身が彼女の著作を読むのは初めてです。

本書は上巻と下巻に分かれているのですが、上巻では著者がフィールドワークを行った7つの文化を引き合いに出し、一般的に信じられている男性と女性の社会における役割の違いなどが、極めて恣意的なものであることが示されています。
そして、その中からも、男性と女性の性差についての普遍的な要素を探しもとめようとしています。
そのような記述のうちの一つを引用します。
原始的な、単純な社会で、だれでも女はみな結婚する社会では―――出産ということでついに栄冠を与えられる。
この出産というのは、非常に現実的で、非常に確実な経験であるから、母性の価値をあまり高くみない社会に育った、ごく少数の、非常に病質の婦人以外はこれを否認することはできないものだ。
それゆえに、女性の生涯は、最初は自分の母親と同一視することで、最後にはこの同化が真実であり、自分はもう一人の人間を造ったという確実さをもって、つまり確実さで出発し、確実さで終わる。
(中略)
しかしながら、男性にとっては、(中略)母親と違って、人間をつくるためにからだを使って、直接的な、筋の通ったやり方で赤ん坊をつくるところの生物と違うということの自覚を余儀なくされる。
つまりは、女性は子供を出産する過程で、自らの体内で新たな命を作りだしたということが確実となり、人生の初期において最も親密に接した他人である母親と自分を同一視することができます。
一方で男性は、産まれてきた子供を自分が作りだしたという確実な証拠がなく、また母親と自分を同一視することもできないため立脚点が不安定であることを言っているのです。
そして、男性のこの状況を補てんするために
すべて、これまでの人類社会では、男性の、業績を上げる必要性がみとめられてきた。
男は料理もし、糸もつむぎ、人形に着物をきせ、はちどりを狩りしてもよい、けれどもそうした行動が男にとって妥当な職業であるときに、それを全社会は、男女とともに、重要な職業ときめる。
もし同じ職業が女のすることであれば、それは重要性が少ないとされる。
人間の多くの社会で、男性の性的役割の確実性は、女性が実行することを許されないような、ある種の行為を行う権利と能力にむすびつけられている。
事実、彼らの男性たることは、女性を何かの分野に入ることや、何かのわざを果たすことから妨害することによって保障されねばならないのである。
ということになるのです。
この正否について判断する十分な材料を私は持ち合わせていないのですが、説得力のある理屈だと思います。

ただし、上記は「だれでも女はみな結婚する」ような原始的な社会についてのものです。
下巻では、1940年代のアメリカ、女性の社会進出が進み生涯にわたり出産を経験しない女性が相当数発生するようになった社会におけるひずみについて述べられます。
女性が職業に就くことにより、男性にとって女性が競争相手として認識されるようになります。
一方で過去の考え方から、男性には男性特有の能力があり女性は劣っているものであるという「常識」があるため、男性は女性よりも能力が高いことを証明しようとして極めて強迫的な精神状態に陥ります。
逆に女性は、結局社会の要請に従って家庭を守ることに専念したとしても、自らの意志でこの人生を選んだのかどうかについて自分でも生涯にわたり不透明なままとなります。
これは80年前のアメリカ社会についての記載なのですが、まさに今でも成り立つような内容だと思います。

先ほど引用した文章からもお分かりいただけると思うのですが、翻訳はあまりよくないです。
また昔の本にありがちなのですが、文字が非常に小さく読みづらいです。
そのため、本の体積、重量に比べて極めて大部の著作となっています。
もうちょっと翻訳さえよければ、とても面白い本だと思うのですが…。
  1. 2018/09/15(土) 07:33:10|
  2. ★★★★
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