雑記+ブックレビュー

書評というほどのものはありません。読んだ本に絡めて、日々思うことなどを書いていこうと思います。

神聖なる海獣―なぜ鯨が西洋で特別扱いされるのか

一部の国々、とくにイギリスやオーストラリア、アメリカ、オランダなどが捕鯨禁止を求めているのに対し、日本やノルウェーはその根拠の薄さを主張しています。
本書は、イギリスに留学した際に捕鯨に対する偏見の強さにショックを受けた著者が、捕鯨反対国がなぜこれほどまで捕鯨を嫌うのかについて述べたものです。

いくつかの論点が述べられているのですが、その中でも面白いと思ったのは、当該国の政治家にとっては捕鯨禁止を主張することにより、自らが環境問題に関心があることを主張するための便利な道具だったということです。
たとえば、大気汚染を防止することや、有害物質の排出を規制することなどを主張してしまうと、経済的なデメリットがあるためにある層からの支持を失ってしまうかもしれません。
これは、食肉動物の畜産(つまりは屠畜)への反対ですと、ますます強い拒否反応が返ってくるでしょう。
しかし、捕鯨を禁止しても全く彼らの懐が痛まないのです。
とくに、経済界とつながりが深くエコロジー的な主張をしづらい政治家にとっては、捕鯨反対は環境派の支持を得るための必須条件だったのでしょう。

また、問題をビジュアル化することの簡単さについても触れられていました。
オゾン層破壊や地球温暖化は派手な映像化が難しいのに対し、反捕鯨運動は単に鯨が殺されている場面をショッキングに伝えるだけでよいのでとても簡単です。
鯨は体が大きいので出血量も多く、捕鯨者の「残酷さ」を訴えかけるにはとても便利なのです。
著者によると、西欧諸国で反捕鯨がこれほど広がるのに寄与した大きな要因として、映画とテレビドラマで放映された「フリッパー」だったそうです。
それまで海生哺乳類を豚とあまり変わらないもとして認識していた人々に対し、海生哺乳類の賢さを印象付けることにより反捕鯨運動の火付け役となったとのことです。
そもそもフリッパー自体、そのような目的で作られたものだったものなので、興業的な面以外にも大成功したといえるでしょう。

反捕鯨を主張しながら、それ以外の家畜を殺したり長期間「非人道的な」環境で飼育することには目をつぶり、また西欧で古くからおこなわれている狐などの猟の残酷さにも鈍感です。
これは、他人を残酷だと主張している人が、その批判相手と全く同じ道義的欠点を持っているという状態です。
この点で、反捕鯨団体の活動は、それ以外の政治活動にもよく似ていると思います。
ネット右翼はしばしば自分たちが批判する「汚い中国人、韓国人」が持つとされる特性と、全く類似の特性を持ちます。
反戦運動、反暴力運動家の多くは相当暴力的であるし、共産主義は反ファシズムであったはずが典型的なファシズム的特徴を兼ね備えてしまいました。
反「反捕鯨運動」を行う人々(私もどちらかといえば彼らに同調します)が行う批判の一つに、反捕鯨運動家たちは文化帝国主義に陥っている、というものがあります。
自らの文化に鯨を食べる習慣がないために、鯨を食べる人間を異常であり野蛮だと決めつけるというものです。
アメリカやイギリスでは、日本人が馬肉を食べることに対する抵抗感も強いそうです。
一方で、一部の日本人は韓国人や中国人が犬を食べることを嘲笑したりします。
このあたりはミイラ取りがミイラになる危険が常に潜んでいると思います。

本書に全面的には同意しませんが、この種の本で感情的にならずにまとまったものを初めて見たので面白かったです。
素人にも読みやすい文章、内容だと思います。
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  1. 2017/06/18(日) 21:26:12|
  2. ★★★★★
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GMとともに

1920年代、草創期のGM(ゼネラルモーターズ)で社長になり、その後30年以上にわたって社長と会長を務めたスローンによる社史のような書物です。
オンリー・イエスタデイ」において当時のアメリカが詳細に描写されていましたが、当時はGM社だけでなく自動車業界全体が草創期でした。
多数の自動車メーカーが乱立したのですが、1920年代初めにはまだ自動車はぜいたく品であり、しかも昔ながらの馬車の形を受け継いだオープンボディが基本でした。
一方でフォード車がT型を大量生産することにより、徐々に一般大衆にも自動車が広がりつつあり、1930年には自動車は中産階級の人々にとっても普通のものとなったようです。
フォード車がT型一種に絞り込んで規模の経済で超低コストの自動車を作ったのに対し、GMは大量の自動車会社を無軌道に買収し続けた結果、高級車から低級車まで幅広いラインナップをそろえることになったのですが、一方で自社内ブランドで競合するという事態も発生したのです。
そのうえ、多額の買収資金により経営難に陥った結果、実質的な創業者が放逐され、その後数年を経て社長に就任したのがスローンです。

スローンが社長に就任した当時は、各車種で分かれていた事業部間の連携が全く取れておらず、どの事業部がどの程度在庫を持っていて、どの程度金を使っているかすらわからない状態でした。
本社機構の統制が全く働いていなかったのです。
そのような状況で、事業部制度の分権的な利点を生かしつつも、本社が状態を把握して重大な決断を行うという、ある意味相反するバランスをとる経営を目指すさまが詳細に述べられています。
また、どこの会社でもあり得る研究機構と事業部との対立も鮮明でした。
とくに、水冷エンジンに代わる革新的な技術として期待された銅のフィンを付けた空冷型エンジンについては、次世代モデルへの採用が決定されながらも、結局は所定の信頼性を満たせずに実用化されませんでした。
この過程で発生した軋轢はGMの開発組織の危機だったのですが、これも組織間の調整を適切に行うことで切り抜けたようです。

一方で、当然のことながらGMについては基本的に良いことしか書かれていません。
世界最大級の企業にまで成長したのですがGMそのものが失敗であったわけはないのですが、いいことばかりが書かれているとやや信頼性が低下するような印象も受けます。
その後、さまざまな要因が重なってGMは凋落し、いったんは倒産状態となりました。
まだGMが健在であったころにGMの問題点について書かれた「晴れた日にはGMが見える」も読んでみたいと思います。
  1. 2017/06/17(土) 10:19:10|
  2. ★★★★
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日本石炭産業の戦後史

少し前に読んだ「昭和ノスタルジアとは何か」で、映画「フラガール」が取り上げられていました。
これは本業である炭鉱業務が不振に陥った常磐炭鉱がレジャー産業に主軸を移したことを題材にした映画です。
炭鉱の女性従業員たちが、人生で全く未経験のフラダンスを学んでハワイアンセンターの中核を担うというものなのですが、「昭和ノスタルジアとは何か」では実際の常磐炭鉱では映画では描かれなかったような切実な失業が発生したことが指摘されていました。
かなり前に住友石炭鉱業の社史を読んだことはあるものの、日本の石炭産業についてよく知らないことに改めて気づき、本屋さんで本書を見つけて購入して見たものです。

私は日本の石炭産業が衰退したのは、石炭から石油へのエネルギーシフトが起きたためである、という程度のぼんやりした印象しかなかったのですが、本書を読むとそれだけではなく鉱山の労務管理にも大きな問題があったと指摘されています。
労働者と会社側が敵対的な関係を解消できずにストライキ等で疲弊し、かつ会社側が労働者の待遇について主導権を失ったために労働者の勤労に対するインセンティブが失われてコスト高に陥ったとのことです。
炭鉱労働者には「標準作業量(標作)」というものが定められており、これを超過した生産が行われれば手当がつく、というのが一般的だったようですが、機械化によりこの標準作業量の見直しが必要になります。
しかし、労組から見ると安易な見直しは労働強化につながるために受けいれることができません。
しかも、戦後の人不足を背景に実質的な賃上げが続き、国際的な競争力を失ってしまいました。

ただ、読んでいて感じたのは、石炭という原料そのものの不利さです。
蒸留による精製が可能な石油とは異なり、石炭はそのような手法は使用できません。
そのため、掘り出したうちのある量は品質が悪く使用できないことになります。
硫黄分の多い石炭は公害問題がクローズアップされる中で行き場を失ったさまが述べられていましたが、これもやむを得ないことだろうなと思います。
多くの化学技術は溶液に溶かしたり、または溶融させたりして液体の形で操作するものであるため、固体原料で溶剤に溶かすことも不可能な石炭は、原料としては使い勝手が悪いのでしょう。

本書では十分な説明なしで採掘に使われる用具の名前などが登場するので、私のような一般人は読んでいてもよく理解できない箇所が多いです。
博士論文を書籍化したとのことですが、書籍化にあたって一般の人への配慮がされているかと言われれば、それは不十分だと思います。
  1. 2017/06/11(日) 22:26:08|
  2. ★★★
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崩れゆく絆

ブラック・シオニズム」において参考文献として挙げられていて興味を持ったものです。
ナイジェリアの中でもイボ族が住む地域を舞台に、イギリス人の植民地支配の手が伸びてかつての伝統が崩壊しつつあるさまが描かれています。

イボ族のオコンクウォは怠惰であった父親を反面教師として育ち、優秀な戦士として社会的に成功します。
しかし銃の暴発という不慮の事故により他人を殺してしまい、その償いとして7年間の追放処分を受けます。
その間、追放先の母の実家には白人キリスト教による支配が迫り、息子のンウォイェがキリスト教に転向してしまいました。
その後、追放が解けたオコンクウォは故郷にもキリスト教の勢力が根付いてしまったのを目の当たりにします。
伝統規範を軽んじた転向者に対する罰としてのキリスト教教会の破壊に携わったオコンクウォは白人の政府にとらえられ、屈辱的な仕打ちを受けた挙句、最後には再び白人を殺したのち自殺してしまうのです。

本書では、かつてのイボ族の伝統的な社会を理想的な社会として描いてはいません。
オコンクウォは男性的な勇猛さを信じるあまり、身内に対しては無用な暴力を振るって一度は妻を銃殺しそうになります。
また、神託により突然子供が死を命ぜられたり、被差別民に対しては全く救いがなかったりもします。
これらのひずみをキリスト教に利用されて、彼らの勢力拡大の一因となったともいえます。

ストーリー自体はそれほど複雑ではないのですが、イボ族の伝統的な生活の描写は精密であり、著者がかつてそういった環境で生活していたことが活かされています。
また、訳者による註も豊富でわかりやすく、とても読みやすいと思いました。
かなり昔に読んだ「神々の午睡」を思い出しました。
まさに本書と同じように、伝統社会がキリスト教の侵入により壊れていく様が描かれる部分があったのです。
「神々の午睡」も本書を参考にしたのでしょうか…。
  1. 2017/05/28(日) 21:56:25|
  2. ★★★★★
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異国の出来事

短編集はどちらかというと苦手です。
せっかくストーリーの背景となる事情を理解したころにその短編が終了してしまい、また新たな世界観をつかむ必要があるからです。
本書もまさにこの意味におけるハードルの高さがあり、読むのに多少の気力を要しました。
しかし、それでも読んでよかったと思える内容の濃さでした。

本書に収められている作品は、著者ではなく日本語への翻訳者が選んだもののようです。
トレヴァーの作品の中から旅に関するものが12編収録されています。
どれもテーマは人間関係の難しさというべきなのでしょうか。
幼いころは中のよかった友達が大人になって微妙な間柄になったり、夫婦間の仲がすでに崩壊した者同士の旅先での恋愛であったり…。
どれも気まずさ、ままならなさを見事に描いているように思いました。
読んだ後爽快な気分になるような、ハッピーエンドといえる作品はないと思います。

ほかの作品、とくに長編も読んでみたいと思います。
  1. 2017/05/27(土) 22:42:45|
  2. ★★★★★
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警視庁草紙

明治ひとけた年代の日本を舞台に、新生日本を目指して抑圧的なやり方を持って治安維持を図る警視庁と、徳川の世に同情的な引退奉行の頭脳戦が描かれます。
佐賀の乱、神風連の乱、西南戦争など、実際にあった九州の騒乱を背景として、旧体制の文化から抜けることのできない人々は寂しく消え去っていきます。
初代大警視(警視総監)の川路は冷徹に彼らを切り捨てようとしますが、引退奉行はそうした人々に対して温かみを持った視線を送り、なんとか法の目を抜けて救い出そうとします。
巨大権力に対して、一介の庶民になり下がった老人が立ち向かうという、やや判官贔屓的なお話です。

全く関係のない話ですが、「ドカベン プロ野球編」という野球漫画を思い出しました。
高校野球のヒーローであったドカベンこと山田太郎や、そのチームメイト、ライバルたちが実在のプロ野球団に入って大活躍するというものです。
実在の人物も多数登場するのですが、多くの場合ドカベンなどの架空の選手たちによって抑えられてしまいます。
当然ながら、実在の人物の能力には限界があるのに対し、物語の上ではキャラクターにはどのような超人的な能力も付与できるのです。
本書も、井上馨、大久保利通から、清水次郎長、唐人お吉などの裏社会の人々、そして江藤新平や西郷隆盛、永岡敬次郎などの反体制の人々など、実在の人物が多数登場します。
しかし、引退奉行のやや超人的な頭脳、そしてその部下の元同心、元岡っ引の腕っぷしにはかないません。
大警視の川路もその意味においては実在の人物ですが、彼に限ってはフィクションの域までその能力が高められています。
物語だからそういうものだと言われてしまえば、それまでですが…。

エンターテインメントとしてもやや冗長で、個人的には中途半端な印象を受けました。
「山田風太郎明治小説全集」としてこれ以外の作品もまとめられているのですが、読むのは見合わせようと思います。
  1. 2017/05/21(日) 18:30:39|
  2. ★★★
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都市は人類最高の発明である

特に意図があって本を買ったわけではないのですが、最近読んだ「Hyper den-City」と同じく都市への集中を礼賛した内容の本でした。
たとえば、古い街並みを保護するために都心において建物の容積率の規制を厳しくすると、低層の建物しか建てることができなくなります。
この結果、住居やオフィスの需要を満たすことができず、都心の不動産価格は異常なほど高騰し、一般の人々には手が届かないものとなります。
美しい街並みは超大金持ちの人々のためだけのものとなり、写真写りはいいのですがそのためにごく普通の収入を持つ多くの人が長時間の通勤を余儀なくさせられることになります。
かつては貧乏な芸術家たちのたまり場であったパリのモンマルトルは、町並み保存の影響もあって賃料が高騰して、普通の収入を持つ人でも住むことは困難です。
また、インドのムンバイでは容積率130%という極めて厳しい制限があるため、スプロールが発生して住民の多くは郊外から長距離の通勤を強いられ、これによるひどい渋滞が慢性化しています。

また、環境保護を目的に都心の住宅開発を規制するということもあります。
これは一件環境を保護できているように見えますが、規制したところで住宅やオフィスの需要が減るわけではありません。
つまりは、規制により建築を阻害された分が、他の地域に移るだけのことです。
そして移った先は都心よりも条件の悪いところであり、これもスプロールを誘発します。

都市礼賛の本を書きながらも郊外に住む自らを自嘲しつつ、「森の生活」の著者ソローの考え方を否定する文章を引用します。
ソローの森歩きは、森林全体に与えた恩恵よりは、彼の魂に与えた恩恵のほうがはるかに多かったようだ。
そして私が田舎に引っ越したことは、環境をひたすら破壊しただけだった。
私は比較的つつましい都会のエネルギー利用者から、大量の炭素排出者になってしまった。
私のコンパクトな都会の住まいはすぐに暖房できたが、私の広々とした家をニューイングランドの冬に暖めるには何百リットルもの灯油が要る。
少しばかりエネルギー利用を節約しようとしたら、母に孫たちを凍死させる気かと怒られた。
照明とエアコンと電気製品のおかげで、電気代は三倍になった。
もちろんほとんどのアメリカの非都市部と同様に、自動車依存になったので大規模雑貨店に行くたびにガソリンをおよそ四リットル近く燃やす。
都市は大量のエネルギーを使うし、都市部だけを見るとアスファルトに覆われて自然が少ないように見えるが、地球全体で見ると人類を都市に集中させることでそれ以外の場所でのエネルギー消費を抑えることができ、資源節約にも環境にも寄与するというのが著者の主張です。
そしてそれはたぶん、正しいのだと思います。
ロハスなどといって田舎暮らししている人は、自動車と冷暖房がない中世の暮らしをするならば本当に環境に寄与できているのでしょうが、ガソリンと灯油と電気を使っている限りにおいては、都会暮らしよりも効率が悪いのです。

著者は、高層ビルを建てるにはどうしたらよいかということよりも、高層ビルを建てることを阻害するあらゆる要因を取り去ることを主張しています。
かなり極端な新自由主義的な考えを持っているので、その考えには賛否あると思いますが、個人的にはかなりの説得力を感じました。
  1. 2017/05/14(日) 19:39:47|
  2. ★★★★★
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銀婚式

ある男性サラリーマンの流転の半生を題材にした小説です。
海外赴任中に妻の体調不良を見抜けずに離婚、その後勤めていた証券会社が倒産して順調なエリート人生が狂い始めます。
転職先の中堅証券会社でもうつ病を発症し、その後田舎の新設大学の教諭として雇われますが、そこは名前さえかければ入学できるような無名の大学でした。
ままならない人生ながらも、その場その場で精いっぱい生きようとする中年男性が描かれています。

主人公の高澤は、絵にかいたようなエリートです。
まじめで責任感もあり、頭もよく職場での人望もあるようですが、彼が米国で奥さんにした仕打ちは心配りに欠けているのでしょう。
しかし、私が高澤の立場に立った時に、もう少しましなことができたかといわれると自信がありません。
高澤の心配りのなさは致命的なものでしたが、それにもかかわらずよくあることのように思います。
しかし、その後勤めることになった新設の大学で出会った若い秘書の女性と恋仲になるのは、あまりよくあることではないでしょう。
このあたり、男性の夢見る都合のよい物語の類型を踏襲しているように思います。
驚いたのは、このような男性視点の物語を書いたのが、女性作家だということです。
相当、読者層を意識して物語を作っているのだなと思いました。

冒頭近くに、9:11のテロの場面が重大な事件として使われています。
私は当時学生だったのであまり9・11の本当の意味を体感できていないのですが、当時アメリカにいた人にとっては世界が変わるほどの衝撃だったのでしょう。
  1. 2017/05/14(日) 18:57:16|
  2. ★★★★
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電波女と青春男

ARIEL」以来、久々に読むライトノベルです。
本作は漫画版のほうを読んだことがあるのですが、途中でやや唐突に終了してしまったので続きが読みたくて原作を読んでみようと思ったものです。
一般的に漫画より原作小説のほうが進みが早い上に、漫画版はアニメ化などの旬の時期が過ぎると容赦なく終了してしまうので、こういったライトノベル原作の漫画が途中で終わってしまうのはやむをえないのでしょう。

両親の海外出張に伴って父方の叔母宅に住むことになった高校生丹羽真。
都会暮らしの浮き立つような気持ちは、想像以上にエキセントリックな性格の叔母と、その娘(従妹)により暗雲が立ち込めます。
ほとんど初対面に近い従妹は、半年間神隠しにあったのちに自分を宇宙人だと主張しはじめ、なぜか布団でぐるぐる巻きの格好で日常を過ごすようになっていたのです。
高校も退学してほとんど引きこもりに近い状態の従妹は、神隠しののちに発見された場所である海岸を毎晩訪れては、自らが宇宙人であることを証明しようと絶望的な努力を続けます…。

著者の入間人間のデビュー作である「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」はかなりシリアスな作品で殺人などの描写もありましたが、本作はどちらかというとコメディタッチです。
ぱっとしない男子高校生がなぜか複数の美形女子からモテモテだったり、その高校の学園祭が異常なほど豪華な内容だったりと、いわゆる「お約束」な内容ではありますが、それでもそういうものだと割り切って読めばとても面白い作品だと思いました。
ライトノベルでは、読みづらい凝った文体で内容があまり伴わないというのがありがちなようです。
本書の文章も独特で読みづらいのですが、それでも読みなれてくると著者のとても高い文章力が感じられます。
とくに緊迫した場面における感情の移り変わりは、本当に「読ませる」描写だと思いました。

本作は漫画版よりはかなり先までストーリーが続くのですが、それでもやや最後は消化不良です。
ライトノベルは続きものである以上、次巻を買ってもらうためには伏線を残す必要があります。
一方で終わるときには終わらなければならないので、広げすぎた伏線が回収しきれないのかもしれません。
(「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」の著者の七月隆文が本作の映画化で忙しくなったためか、「俺がお嬢様学校に「庶民サンプル」として拉致られた件」をまるで打ち切りのように唐突に終わらせたのも類似の現象だと思います。)
連載漫画でもそうなのですが、幸福な最後を迎えられるライトノベルはもしかしたら希少なのかもしれません。
  1. 2017/05/05(金) 23:05:32|
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中国第二の大陸 アフリカ:一〇〇万の移民が築く新たな帝国

アメリカや日本が主導するアジア開発銀行(ADB)に対抗して、中国主導でアジアインフラ投資銀行(AIIB)が設立されました。
AIIBはADBに比べて手続きが簡単で、かつ資金を得る際の制限も少ないのが売りだそうです。
これはまさに中国らしいやり方だと思います。
日本や西洋の企業が他の国でビジネスをする際には、表向きの決まりを順守しようとします。
たとえば、現地の高官にわいろを贈ったり、不法な方法で資源を得たりすることは、まったくないとは言わないまでもここ最近ではかなり少なくなっています。
一方で、中国企業はそのあたりの順法意識は極めて低いです(著作権、特許権をまったく尊重しないこともその表れでしょう)。
アフリカのような抑圧的、非民主的な国々の多い地域では、中国的なやり方はとても有利なのだと思います。

本書では、アフリカにわたって成功しようとするたくさんの中国人が紹介されています。
その多くは、中国本国の発展に乗り遅れて、上昇の機会をつかみ損ねたような人たちです。
アフリカにわたった中国人の多くは、現地人に対する差別意識を隠そうとせずに当地の労働法で定められているよりも低い賃金で労働者を酷使します。
現地の政府にとっては、中国は公式、非公式両方の手段で大量の資産を提供してくれる上に、壊滅的な失業率を多少なりとも改善してくれるために、中国がどんな不法なことをしようとも苦情を言うことができない状態にあります。
結局は、現地の一部のエリートの蓄財に役に立つだけであり、長期的な視野ではあまりプラスにならないと予想されます。
中国人は否定しますが、やり方はかつての西洋諸国による植民地化とほぼ類似だともいえます。
中国は「友好的パートナーシップ」や「兄弟国として開発への道をともに歩む」などといった、独特の謳い文句を掲げてアフリカへやってきた。
極めつきは「ウィン・ウィン」だ。
これは麻酔効果のあるキャッチフレーズで、中国が手がけるほぼすべての事業に用いられる。
(中略)
中国はあれほど非難してきた西欧の父権主義ときっぱり手を切ったわけではなく、むしろ別のかたちの独自の父権主義を持ち込んでいるのだ。
アフリカ人は中国人の兄弟ではない。
まったく違う。
兄弟の結びつきと喧伝しながら、中国人高官たちは、アフリカ人はよちよち歩きの子どもで、甘い誘いや幼児語を使えばこちらの思いどおりになると思っている。
「思っている」というのは実際にそうなのだと思います。
行政全体が腐敗しているために、優秀なアフリカ人は国外に去り、ますます無能な官僚が残って腐敗が進行するのでしょう。
国家の資源を切り売りして一部の特権階級の蓄財のもととなり、近い将来には国民には何も残らない、ということもあり得ると思います。
こういった場所におけるビジネスでは、順法意識の薄い中国は非常に強いのだと思います。

本書は西洋人が書いたものであり、やや西洋白人的な押し付けがましさを感じるところも多いです。
しかし、英語以外に中国語、スペイン語、フランス語、ポルトガル語を操る著者が実際に現地で見てきたことを書いているだけあり、内容は信頼できるものだと思いました。
表紙の写真はギニアビサウのものなのですが、本書ではギニアビサウについてまったく触れられていないので、ちょっとどうかと思いましたが…。
  1. 2017/05/04(木) 23:26:56|
  2. ★★★★★
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チャベス政権下のベネズエラ

1998年のベネズエラ大統領選挙においては、チャベスは当初は泡沫候補扱いでした。
しかしながら既存の政党への不信を背景に急速に支持を伸ばしたチャベスは勝利し、その後2013年の病死にいたるまで政権の座を維持し続けました。
現在もチャベスの後継者として、基本的にはチャベス路線を踏襲したマドゥロが大統領を務めています。
一方で近年のベネズエラは急速に権威主義の色を深めており、薬品や食料品などの生活必需品の欠乏が深刻化しています。
石油という強力な地下資源がありながらなぜこうなってしまったのか、本書ではチャベス大統領の政治運営について分析されています。

ベネズエラにとって最も大きな不幸は、2002年4月の政変で一時チャベスが政権を追われた際に、アメリカが反チャベスのカルモナ政権を性急に承認してしまったことにあるようです。
その後、わずか2日でチャベスは群衆の歓呼の声のなか政権に復帰するのですが、これによりベネズエラは反米政策を取らざるを得なくなりました。
アメリカにとっても南米の地域大国を強力な反米、親キューバに導いたことになり、ブッシュ元大統領の数ある失政の中の一つとも考えられます。
一方、2000年代後半には原油価格が大幅に高騰したため、ベネズエラは運の良いことに大量の資金を入手することができました。
オイルマネーを背景に気前よく「ミシオン」と呼ばれる緊急プロジェクトを実施することでかろうじて社会経済のひずみを抑えてきたのが、昨今の原油価格低迷でカバーしきれなくなったというのが実情のようです。

特にひどいのが、食料品などの価格統制でした。
貧困層にとって食料品などが入手困難なのは、投機筋が不当に価格を釣り上げているからであるとして、食料品価格の上限を設定して安く売ることを強制したのです。
その結果、食料品の生産コストが販売価格を下回り、食料品の生産量が激減し、ますます食料品が入手できなくなったというものです。
チャベス個人に権力が集まり縁故による採用が蔓延した結果、経済に無知な人物が要職についてこのような判断を行ったのでしょう。
国としてはほぼ崩壊しつつあるといえます。

現在、ベネズエラからは人材も資本も急速に流出しつつあります。
これは末期にある独裁国家にありがちなことですが、このままではベネズエラも同じ道をたどるのだと思います。
  1. 2017/05/02(火) 19:03:38|
  2. ★★★★
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Hyper den-City

都市の過密について述べた本は、本屋さんに行くとそれなりにたくさん見つかります。
私が読んだことがあるのは、「東京一極集中の経済分析」や「グローバル・シティ―」などですが、いずれも過密状態を絶対悪とまでは言わなくても、それほど良いものだとはとらえていません。
一方、本書では序章でデザイナーのブルース・マウの言葉を挙げて、過密が必ずしも悪ではないことを主張します。
密度は希望を提供する。
世界人口の半分が都市に居住する今、密度は急速にグローバルな条件となりつつある。
都市が高密になるほど生態系は維持しうる。
正しく計画されるかぎり、高密高層の都市環境は間違いではない。
交通も減り、下水やエネルギー、道路なども緊密にまとめることで効率化できる。
(中略)
都市の密度を上げれば、それだけ自然の生産の地域が解放され、田園も破壊されない。
そして、今度は著者自身の言葉でこう述べます。
有名な命題に「ノイラートの船」というものがある。
これは大洋に出てしまった船がかなり大きな故障を生じたとしても、寄港して修理をする環境になかったとすれば、航行を続けながら手元で可能な種類をし続けるしかない、という比喩である。
完全な解決(修理)を施された状態での航行は理想態であろうが、望むべくもないとしたら、この可能態以外のチョイスはない。
(中略)
Hyper den-CityはBignessの概念を経た「ノイラートの船」である。
故障(不都合)が仮にその大きさによるものであるとしても、この二一世紀のノアの方舟が一〇〇億の人口を積載するとすれば、当面ダウンサイジングは叶うまい。
可能なのは航海の無事(見事にではなくとも、何とかやりおおせること)を祈るだけだ。
Bon Voyageと。
シュリンキング・ニッポン」では「ファイバーシティ」なる概念が提唱されていました。
これは、地方の人口を中核都市に集約することで住民サービスのコストを削減することができ、しかも交通弱者にとってもやさしいまちができるというものでした。
いわゆる「コンパクトシティ」の主張とも相補するものですが、実際に日本でうまくいっているようには思えません。
ひとつには、住民サービスが分散するコストよりも車で移動するコストのほうが圧倒的に安いこととがあるでしょう。
そしてもう一つの原因は、自動車産業が世界経済に与えるインパクトの大きさにあります。
もしコンパクトシティが実現されて自動車の需要が大幅に減少してしまったとしたら、自動車に依存する分野の経済は大打撃を受けます。
このショックはあまりにも大きく、世界のほとんどの国の政府は車の総量規制に対しては消極的です。

本書では、かつての九龍城砦などを例に挙げて、都市空間のexplosionならぬinplosion(内破)を提唱しています。
これは、都市が外側への拡張に制限が生じた場合、内向きに空間を探し求めるということを言います。
九龍城砦では隣り合うビルがCageと呼ばれる仮設のベランダを通じてつながりあい、まるで一つの建物であるかのように複数の階層で連結していました。
本書の「東京計画二〇一〇」では、東京湾のエリアに巨大な立体都市を作り上げてそこに機能を集中させることを提案しています。
現在の東京は立体的な拡張が不十分なために職住が離れており、平面移動を余儀なくさせられることが通勤ラッシュを生んでいます。
これに対して、「東京計画二〇一〇」では上下方向の移動を取り入れることで職住近接を実現し、平面方向の移動を最小限に抑えることができるというものです。
一方で、空間が限られていることから貧富の差によってある地域では住居の環境が著しく悪くなることも認めており、このあたりが理想態ではないが可能態である、という所以なのでしょうか。

この「東京計画二〇一〇」でもファイバーシティの構想と同じく、経済的な観点がごっそり抜けおちているように見えてしまいました。
超高層ビルを地震国である日本で作るための建設コスト、彼らに大量に生活物品を供給するための物流コストなど…。
そして、このような過密都市は万一エネルギーの供給が止まってしまうと、壊滅的な状況となります。
絶対に停電を起こさないような自律したバックアップシステムが必要ですが、この維持管理には莫大なコストが必要となるでしょう。
超過密都市が必要だ!というのならば、なぜ現状でそのような都市が実現されていないかを分析してほしいとも思います。

本書は価格の割にはトピックスが豊富で、一読するにはとても面白い本だと思います。
内容には必ずしも同意しないところが多いのですが…。
  1. 2017/05/01(月) 20:28:56|
  2. ★★★★
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五足の靴

最近天草に旅行に行ったのですが、当地では隠れキリシタンに関連したトピックスと並んで、本書が観光の目玉となっておりました。
「五足の靴遊歩道」が整備され、資料館では五足の靴に関連した展示があり、足湯にはそのものずばり「五足の靴」という名前がついています。
津軽半島における太宰治と同じくらいの遭遇頻度なのですが、残念ながら知名度ではだいぶん劣るように思います。
私も今回旅行して初めて「五足の靴」のことを知りました。

本書は、明治40年に雑誌「明星」で作品を発表していた詩人5人組が、取材旅行で西日本を訪れた際の旅行記です。
与謝野寛、北原白秋、平野萬里、木下杢太郎、吉井勇という、現在から見ればそうそうたるメンバーです。
しかし、与謝野を除けばまだみな20代前半の若者であり、いまだその名声はそれほど知れ渡った状態ではなかったようです。
本書は東京二六新聞に連載という形で発表されたのですが、著者名は「五人づれ」となっていて五人のうちの誰がどの記事を担当したのかは明かされませんでした。
しかし、一読した限りにおいてはどの記事も幻想的な雰囲気を漂わせており、とても男五人のむさくるしい旅とは思えません。
旅のクライマックスである天草での大江天主堂訪問以降はやや盛り上がりに欠けるのですが、それでも五人の文章力が平均して高かったのだろうと感じました。

福岡県にある本土と志賀島を結ぶトンボロ「海の中道」を訪れた時の文章を引用します。
丘に登って洋々たる玄界灘を見る。
降って磯を歩く。
風なければ晴れたる海は静かである。
水の色は空に映り、空の色は水に映る。
紺青の世界の一方を限るは、卵の如く白い砂の壁である。
自然は意匠に富む、砂の壁は限りなく襞を作り、長く続いて厭くことを知らぬ。
白い砂が白く光って人の眼を眩す。
暑さは煎るようである。
えぐれた壁に蔭を求めて衣を脱し、天野、河内、中田三氏と我ら五人、八人の男は海に跳び込む。
海は遠浅だが同じ砂で底が成り立っている、その故に清く澄んでいる。
他に人はいない。
這い上がって砂の上に転がるは芋のようである、手と足とを使って砂丘に攀ずるは猿のようである。
登った壁をするすると滑り下る気持は何とも言えぬ。
H君の発見した小児らしい遊戯が八人の男を支配し、交る交る登っては滑り下る。
砂丘は八人の男と俗界との交渉を絶った。
本書ではこのような短い文章が畳みかけるように続き、急速に現実感が失われるという箇所がしばしばみられます。
また、当地で作ったと思われる短歌や詩が引用されることも多く、記事によってはまるで全文が詞書の体をなす歌物語のようでもあります。

天草にわたる船は悪天候のために揺れに揺れたようで、全員が船酔いでひどい目に遭ったのですが、それすらも本書で読むと別世界の物語のように感じられます。
私自身は散文のほうが好みで詩には興味がなく、そのために雑誌「明星」にも縁遠かったのですが、本書を読んでこれらの著者のほかの文章も読んでみたいと思いました。
  1. 2017/04/26(水) 21:08:51|
  2. ★★★★★
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数値と客観性――科学と社会における信頼の獲得

かなり前に読んだ「専門知と公共性」の著者が翻訳したものです。
私はメーカーで開発職に携わっているので、まさに本書のタイトルである「数値と客観性」については常に意識しなくてはならない立場にあります。
よく我々が使う表現としては「数値が一人歩きする」というものがあります。
家庭に一般に存在する測定器では、例えば長さだと定規を使おうがメジャーを使おうが基本的には同じ値を得ることができます。
しかし、こういったことは例外的であり、測定装置によって同じものを測定しても全く違う値が出てくるというのは、あたりまえのことです。
これは誤差の問題だけではなく、測定装置ごとに測定手法が異なるということも影響します。
(最近では豊洲市場予定地の地下のヒ素濃度測定でもめたことがありますが、これが典型例です。)
このため、専門家ほど数値を提示することに慎重になるのですが、一方で非専門家ほど客観性を担保するために数値を要求する傾向があります。
一般的には専門家ほど数値にこだわる印象があるのですが、場合によってはこれが逆転することもあるのです。
本書ではこのようなねじれ現象など、専門家のコミュニティと非専門家のせめぎあいについて述べられています。

費用の見積もりについても、同様に「数値の一人歩き」が起きやすいです。
何か新しいものを作って販売する際に、まずは原価を計算してからそれに利益を上乗せして販売価格を決定するのですが、この計算原価は前提条件によってある程度操作することができます。
配置する必要のある人員については、たいていの場合働いている人は複数の仕事を同時にこなします。
この場合、同時にこなすということをどのように価格に反映させるかは、かなり恣意的です。
たまたまほかに仕事がある場合はその人は休み時間なく動きますし、仕事が途切れると遊びの時間が発生します。
そして、ベルトコンベアラインでもない限りは、ある程度遊びの時間はどうしても発生します。
これ以外にも、他と共通して使用する設備、固定資産の償却年数、為替など、不確定要素は極めて多く、言い方は悪いのですが計算する人にとって都合よく数値が形作られるのはよくあることです。
しかし、部外者の人にはそういったことはわからないので、数値がもっともらしく聞こえてしまいます。

そのため、悪気があるわけではなく、誠実な専門家であっても数値を安易に出すことにはためらう傾向があります。
しかし、非専門家から見るとこれが極めて不透明に見えてしまうために、不信感を生むことになります。
理想を言えば非専門家の方々にも数値を出すための前提条件を十分理解してもらえればいいのですが、これは事実上不可能です。
この埋めがたい溝をどうするのか、全く答えが出ていない状態だと思います。

個人的には、数字には名付けと似たような不思議な力が備わっているように思います。
単なる体調不良よりも、原因不明であっても何らかの病名がついたとたんに何か実体のあるような気がしてくるようなものです。
数字も、その数値自体に何の意味もなかったとしても、数値がついたとたん実体を把握できたかのような錯覚を生むのです。
これは恐ろしいことだと思います。

本書はおそらく翻訳があまりこなれてなくて、とても読みづらいです。
一方で訳者の書いた解説文(改題)はわかりやすく、先にこちらを読んだ方がよいと思います。
英語原文だと、もう少し理解しやすいのでしょうか…。
  1. 2017/04/22(土) 19:37:25|
  2. ★★★
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昭和ノスタルジアとは何か

本書では2000年代前半から流行りだした昭和ノスタルジア系のメディアのうち、映像作品に絞って分析が行われています。
  • ALWAYS 三丁目の夕日
  • 東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜
  • プロジェクトX
  • フラガール
  • 二十世紀少年
  • クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲
いずれも興業的(「プロジェクトX」は視聴率的)に大成功をおさめた作品ばかりです。
とくに昭和ブームの火付け役となった「三丁目の夕日」への評論の多くは、理想化された昭和という時代の温かみについて触れていました。
私は個人的にはこれらの作品すべてに対してあまり興味がなく、「プロジェクトX」の一部を除いては未見の状態です。
昭和ノスタルジアを感じるには世代的に若すぎるのが原因かもしれません。

本書でも指摘されているのは、当然ながら昭和という時代が今よりもよかったとは言い切れないということです。
確かに日本の経済成長率は高かったのかもしれませんが、一方で冷戦が深化して不安定な状況にあり、また今よりも生活のセーフティネットは不十分なためにいつの間にか消え去るような人も多かったのです。
以前読んだ「学歴貴族の栄光と挫折」では、かつては大学を卒業するだけでエリートとして特権的な生活を送れていたのが、1960年代くらいからそうではなく若者たちの不満が高まったことが書かれていました。
大学生に限らず、従来のライフステージが完全に崩壊して人生そのものの不透明さも増していたことでしょう。
一方で、昭和ノスタルジアを絶賛する人たち(これには安倍首相や当時の野田首相も含まれます)の多くはエリート層であり、彼らから見れば当時は若き日のよい思い出なのかもしれません。

個人的なことになりますが、私は「プロジェクトX」を娯楽作品としてではなくノンフィクション作品として高い評価を下す人は、あまり信用していません。
そして、会社員をやっていると「プロジェクトX」を好む人にたくさん出会います。
実際に研究や開発の仕事をしていたら、会社において物事が実際に進むのとは全く別の論理が描かれているのがわかるのですが、それにも気づけないような人がかなり高位の人にもたくさんいるのに驚きます。
案の定というか、ねつ造疑惑があったりしてプロジェクトXは打ち切りになりました。
問題となった回以外も、ねつ造とまでは言えないまでもいわゆる「情報の取捨選択」により、相当実態からはゆがめられた内容で放映されていました。

本書では、それぞれの作品の検証を経て、昭和ノスタルジアなるものが、いかに受け手によって望ましいように情報が変化した結果であるかが述べられています。
そして、六作品それぞれが違った形で当時を表現しているのですが、すべて製作者の思いにより当時のある部分が強調されてある部分は背景に退いています。
「フラガール」では閉山しつつあった炭鉱で働く若い女性たちが希望を持ってフラガールになった部分が強調されますが、一方でそうして再就職できたのはごくわずかであり、多くの炭鉱労働者が極めて厳しいリストラの末に生活苦に陥ったことなどはほとんど触れられません。
これも一種の理想化ともいえます。
昭和ノスタルジア作品は、今とは異なった理想的な時代への要求が強い、そういった社会背景があったからこそ成り立つのでしょう。

本書はもう少し軽い読み物だと予想していたのですが、かなり本格的な専門書です。
用語も難しいのですが、内容はそれに見合って理屈だっていて面白いです。
漫画などでレトロゲームものが増えているのも、また似たような背景なのかもしれないとも思いました。
  1. 2017/04/16(日) 22:52:23|
  2. ★★★★★
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天安門

著者のリービ英雄は「9・11 変容する戦争」で「千々にくだけて」を読んだことがあったのですが、「未完の平成文学史」で著者が紹介されているのを見てまたほかの作品を読んでみたくなりました。
リービ英雄は、アメリカ生まれですが、父親の仕事の関係で子供のころは台湾に住んでいました。
その後、両親の離婚に伴い香港へ移住。
さらに青年期には日本にわたり、プリンストン大学在学中からは日本とアメリカを往復する生活に入ります。
40歳でスタンフォード大学の教授を辞職して以降は日本に定住するという複雑な経歴の持ち主です。
母国語は英語ですが、日本語で小説を書き、北京語も会話はできる程度には堪能です。
やや、「日本を称賛する外国人」として利用されることが多いのが気になるのですが…。
本書に収められている短編は、いずれも著者の経験に基づいており、自分のルーツを探すために中国を訪れた白人を描いたものです。

いずれの作品も過去と現在が行ったり来たりして読みづらく、かつ同じようなテーマが続くので飽きてくるというのはあるのですが、著者の特異な出自による浮遊感がとても良く伝わってきます。
本書を読んでいると、著者は中国で露骨に収入を聞かれたり、旅行者や現地の業者にぞんざいな扱いを受けたりと、不快な目にばかり遭っているように見えるのですが、それでもたびたび中国に行くのはなにか執念のようなものを感じます。
とくに、古代に中国に移住したユダヤ人の痕跡を探る「ヘンリーたけしレウィツキーの夏の紀行」を読んでいると、ルーツというものの重さが印象的でした。
今となっては当時のユダヤ人は完全に同化してしまい、「彼らがユダヤ人の末裔だ」ということすらいうことができません。
それでも、シナゴグの跡であり、今では単なる井戸のような穴となってしまった箇所にたどり着いた時の満足感は、自らの故郷をもたない著者の同化に対するあこがれの表れなのかもしれません。
  1. 2017/04/02(日) 08:19:00|
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時は過ぎゆく

田山花袋により大正5年に発表された作品です。
1952年に岩波文庫から出版されたものが、改訂されずに今でも版を重ねているので、漢字などはすべて旧字体のままです。

解説文に田山花袋が語った内容が紹介されています。
人間も四十になつて人生の全圓がまづ見わたせるといっていいね。
といふのは、自分が生きてきたのが四十年、その四十年の間に見てきた人たちが順々にさきへ生きて行つたのが四十年、つまり年齢の上からいふと、四十を中心にして前後へのびた八十年の生活が、空想でなしに觀照することができるやうになつたんだからな。
ぼくなども今にして始めて(ママ)五十、六十の人の心理も、七十、八十の人の生活も、ほぼそれと見通せるやうな氣がするよ。
私も似たような年齢ですが、必ずしも完全同意ではなくとも、言いたいことは理解します。
かつて若かった人もすぐに年を取り、年をとると容赦なく現実がやってきます。
逆に今では年をとって現実に打ちのめされたような人であっても、若かったころ、とりわけ幼年自体には夢にあふれていたはずです。
年をとるのは悪いことばかりではありませんが、マイナスの面が存在して、しかも避けることができません。
このあたりについての想像力は、20代のころはなかったと痛感します。

本書は、元家老の「旦那」の家に仕える良太という人物の人生を中心として、明治維新から大正初期までの世の移り変わりを表したものです。
かつての士族が明治維新後落ちぶれ、一方で百姓に過ぎなかったものが土地長者になったり、50年の間に世は激しく移り変わります。
そして個々の人々も同じように変化します。
若くて美しかった娘が姑との折り合いが悪くて心身を害して醜く死んでいったり、学問への志にあふれた青年が兄弟を養うために人生の苦難を経験して中年期には見る影もなくやつれ果てたり…。
ほとんどの人間は若いころの夢や希望をそのままの形で叶えることなどできません。
しかも、この時代には結核という死の病がまだ克服されておらず、健康な人間もいつ死ぬかわからない状態でした。
たとえうまくいったように見えても、時代の変化に左右されて当初の形のままではなくゆがんだ形になることもしばしばです。
よく、「現代は環境の転変が激しい」といいますが、それは明治の時代でもそうだったのであり、戦争や死病の危険が少ない分まだ現代のほうがましなのでしょう。

解説文によると田山花袋はこの小説と「田舎教師」の2作が自信作だったそうですが、確かにそれもうなずける内容です。
タイトルそのままですが、まさに「時は過ぎゆく」ものであり、二度と戻ることはないことを実感させられます。
典型的な自然主義の名作だと思います。
  1. 2017/04/02(日) 07:53:09|
  2. ★★★★★
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レ・ミゼラブル

以前読んだ「ルーゴン・マッカール叢書」が面白かったので、同じフランスの小説でもやや時代が遡った本書を読んでみようと思っていました。
本書では1832のパリ六月暴動の場面でクライマックスを迎えますが、「ルーゴン・マッカール叢書」の「壊滅」は1871年のパリ・コミューンがクライマックスです。
六月暴動は数日で鎮圧されたのに対し、パリ・コミューンは2か月持ちこたえたという違いはありながらも、結末がよく似ており、ゾラが「レ・ミゼラブル」を意識していた可能性はとても強いように思います。

本書はまだ今のような小説のエンターテインメントとしての作法が定まっていなかったのか、ところどころ著者の政治的意見がさしはさまれています。
そもそも著者のユゴーが政治家として失脚して亡命生活を送っている最中に書かれた小説だということもあり、明らかな政治的な意図が感じられます。
そのため、小説の本筋から大きく外れて現代の世相を著者なりに評論した箇所が長々と続くことが多く、はっきり言えばこれらの場面は読むのが苦痛なことが多いです。
とくに序盤のワーテルローの戦いの箇所は、膨大な量の描写が本筋との関連を明らかにしないまま延々と続き、いったい自分は何を読んでいるのかよくわからなくなってしまいます。
現代の視点からエンターテインメントとして読むと、完全に失格だと思います。

現在でも名だたる批評家が、この迷路のような小説を高く評価しているのですが、なにやら難しそうなものを持ち上げるような風潮を感じなくもありません。
物語の本筋自体は面白く、悲惨な人生の末の後半生に聖人として生きるジャン・ヴァルジャンをはじめとして、パリの最下層で生きる様々な人たちが生き生きと描かれています。
それだけに、あまり関係のないように見える箇所を読むのがよけい苦痛に思えるのですが…。

普通に考えると、本書を読む意味はあまりなく、たくさん出版されているダイジェスト版を読めば十分でしょう。
研究者などは本書を読むといいのでしょうが、そういった人は日本語訳を読むくらいなら原書をよめばいいとも思います。
  1. 2017/03/29(水) 11:51:31|
  2. ★★★
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人工知能のための哲学塾

本書は、スクウェア・エニックスでゲームキャラの人工知能開発に携わっている人物によるものです。
著者が発起人となって全五回にわたって行われた「哲学塾」なる催しにおいて、講演した内容をまとめたものです。
フッサールやデリダなど、主に大陸系の哲学者を題材にしたものとなっています。
少しだけ毛色の違うのが「生物から見た世界」のユクスキュルです。
ユクスキュル自体は生物学者なのですが、生物からは世界はどのようにとらえられているのかという観点からは、確かに哲学ともいえるなとも思います。

哲学の世界でこれまで得られてきた結果を活かして人工知能の開発が進んできた…というような内容なのですが、素人ながら本当にそうなのかとても疑問に思いました。
人工知能の開発は単独で進んでいて、その成果を哲学の概念に無理やり当てはめるとこうなった、というような印象を受けたのです。
冒頭の現象学にしても、現象学がデカルト的な懐疑ではなく、判断停止を行うことにより広い領域の現象を取り扱うことができると主張するのはその通りなのでしょうが、そのことと人工知能に対して「志向性」を与えることとの関連性が極めて薄いように見えます。
現象学という広い領域のごくごく一部を都合よく取り出して人工知能の分野に引っ張ってくることで、学問的な「それっぽさ」を与えようとしているようにも見えたのですが…。
ただ、本書の分量からして人工知能について深く述べることは不可能であり、その述べられていない部分において本当に現象学と深く重なり合っているという可能性もあるのですが、無理やり今風のかっこよさを作り出しているような印象を受けました。
(「サイエンス・ウォーズ」で解説されていた「ソーカル事件」を思い出します。)

むしろ本書で扱われているような形而上学的な哲学ではなく、実験科学的な認知情報に関する学問のほうが親和性が高いのではないでしょうか。
無理に遠い分野とつなげようとするよりも、地道に近い分野同士の共同で得られた成果をちゃんと固める方が先のようにも思います。
  1. 2017/03/19(日) 19:14:53|
  2. ★★
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