雑記+ブックレビュー

書評というほどのものはありません。読んだ本に絡めて、日々思うことなどを書いていこうと思います。

五足の靴

最近天草に旅行に行ったのですが、当地では隠れキリシタンに関連したトピックスと並んで、本書が観光の目玉となっておりました。
「五足の靴遊歩道」が整備され、資料館では五足の靴に関連した展示があり、足湯にはそのものずばり「五足の靴」という名前がついています。
津軽半島における太宰治と同じくらいの遭遇頻度なのですが、残念ながら知名度ではだいぶん劣るように思います。
私も今回旅行して初めて「五足の靴」のことを知りました。

本書は、明治40年に雑誌「明星」で作品を発表していた詩人5人組が、取材旅行で西日本を訪れた際の旅行記です。
与謝野寛、北原白秋、平野萬里、木下杢太郎、吉井勇という、現在から見ればそうそうたるメンバーです。
しかし、与謝野を除けばまだみな20代前半の若者であり、いまだその名声はそれほど知れ渡った状態ではなかったようです。
本書は東京二六新聞に連載という形で発表されたのですが、著者名は「五人づれ」となっていて五人のうちの誰がどの記事を担当したのかは明かされませんでした。
しかし、一読した限りにおいてはどの記事も幻想的な雰囲気を漂わせており、とても男五人のむさくるしい旅とは思えません。
旅のクライマックスである天草での大江天主堂訪問以降はやや盛り上がりに欠けるのですが、それでも五人の文章力が平均して高かったのだろうと感じました。

福岡県にある本土と志賀島を結ぶトンボロ「海の中道」を訪れた時の文章を引用します。
丘に登って洋々たる玄界灘を見る。
降って磯を歩く。
風なければ晴れたる海は静かである。
水の色は空に映り、空の色は水に映る。
紺青の世界の一方を限るは、卵の如く白い砂の壁である。
自然は意匠に富む、砂の壁は限りなく襞を作り、長く続いて厭くことを知らぬ。
白い砂が白く光って人の眼を眩す。
暑さは煎るようである。
えぐれた壁に蔭を求めて衣を脱し、天野、河内、中田三氏と我ら五人、八人の男は海に跳び込む。
海は遠浅だが同じ砂で底が成り立っている、その故に清く澄んでいる。
他に人はいない。
這い上がって砂の上に転がるは芋のようである、手と足とを使って砂丘に攀ずるは猿のようである。
登った壁をするすると滑り下る気持は何とも言えぬ。
H君の発見した小児らしい遊戯が八人の男を支配し、交る交る登っては滑り下る。
砂丘は八人の男と俗界との交渉を絶った。
本書ではこのような短い文章が畳みかけるように続き、急速に現実感が失われるという箇所がしばしばみられます。
また、当地で作ったと思われる短歌や詩が引用されることも多く、記事によってはまるで全文が詞書の体をなす歌物語のようでもあります。

天草にわたる船は悪天候のために揺れに揺れたようで、全員が船酔いでひどい目に遭ったのですが、それすらも本書で読むと別世界の物語のように感じられます。
私自身は散文のほうが好みで詩には興味がなく、そのために雑誌「明星」にも縁遠かったのですが、本書を読んでこれらの著者のほかの文章も読んでみたいと思いました。
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  1. 2017/04/26(水) 21:08:51|
  2. ★★★★★
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数値と客観性――科学と社会における信頼の獲得

かなり前に読んだ「専門知と公共性」の著者が翻訳したものです。
私はメーカーで開発職に携わっているので、まさに本書のタイトルである「数値と客観性」については常に意識しなくてはならない立場にあります。
よく我々が使う表現としては「数値が一人歩きする」というものがあります。
家庭に一般に存在する測定器では、例えば長さだと定規を使おうがメジャーを使おうが基本的には同じ値を得ることができます。
しかし、こういったことは例外的であり、測定装置によって同じものを測定しても全く違う値が出てくるというのは、あたりまえのことです。
これは誤差の問題だけではなく、測定装置ごとに測定手法が異なるということも影響します。
(最近では豊洲市場予定地の地下のヒ素濃度測定でもめたことがありますが、これが典型例です。)
このため、専門家ほど数値を提示することに慎重になるのですが、一方で非専門家ほど客観性を担保するために数値を要求する傾向があります。
一般的には専門家ほど数値にこだわる印象があるのですが、場合によってはこれが逆転することもあるのです。
本書ではこのようなねじれ現象など、専門家のコミュニティと非専門家のせめぎあいについて述べられています。

費用の見積もりについても、同様に「数値の一人歩き」が起きやすいです。
何か新しいものを作って販売する際に、まずは原価を計算してからそれに利益を上乗せして販売価格を決定するのですが、この計算原価は前提条件によってある程度操作することができます。
配置する必要のある人員については、たいていの場合働いている人は複数の仕事を同時にこなします。
この場合、同時にこなすということをどのように価格に反映させるかは、かなり恣意的です。
たまたまほかに仕事がある場合はその人は休み時間なく動きますし、仕事が途切れると遊びの時間が発生します。
そして、ベルトコンベアラインでもない限りは、ある程度遊びの時間はどうしても発生します。
これ以外にも、他と共通して使用する設備、固定資産の償却年数、為替など、不確定要素は極めて多く、言い方は悪いのですが計算する人にとって都合よく数値が形作られるのはよくあることです。
しかし、部外者の人にはそういったことはわからないので、数値がもっともらしく聞こえてしまいます。

そのため、悪気があるわけではなく、誠実な専門家であっても数値を安易に出すことにはためらう傾向があります。
しかし、非専門家から見るとこれが極めて不透明に見えてしまうために、不信感を生むことになります。
理想を言えば非専門家の方々にも数値を出すための前提条件を十分理解してもらえればいいのですが、これは事実上不可能です。
この埋めがたい溝をどうするのか、全く答えが出ていない状態だと思います。

個人的には、数字には名付けと似たような不思議な力が備わっているように思います。
単なる体調不良よりも、原因不明であっても何らかの病名がついたとたんに何か実体のあるような気がしてくるようなものです。
数字も、その数値自体に何の意味もなかったとしても、数値がついたとたん実体を把握できたかのような錯覚を生むのです。
これは恐ろしいことだと思います。

本書はおそらく翻訳があまりこなれてなくて、とても読みづらいです。
一方で訳者の書いた解説文(改題)はわかりやすく、先にこちらを読んだ方がよいと思います。
英語原文だと、もう少し理解しやすいのでしょうか…。
  1. 2017/04/22(土) 19:37:25|
  2. ★★★
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昭和ノスタルジアとは何か

本書では2000年代前半から流行りだした昭和ノスタルジア系のメディアのうち、映像作品に絞って分析が行われています。
  • ALWAYS 三丁目の夕日
  • 東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜
  • プロジェクトX
  • フラガール
  • 二十世紀少年
  • クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲
いずれも興業的(「プロジェクトX」は視聴率的)に大成功をおさめた作品ばかりです。
とくに昭和ブームの火付け役となった「三丁目の夕日」への評論の多くは、理想化された昭和という時代の温かみについて触れていました。
私は個人的にはこれらの作品すべてに対してあまり興味がなく、「プロジェクトX」の一部を除いては未見の状態です。
昭和ノスタルジアを感じるには世代的に若すぎるのが原因かもしれません。

本書でも指摘されているのは、当然ながら昭和という時代が今よりもよかったとは言い切れないということです。
確かに日本の経済成長率は高かったのかもしれませんが、一方で冷戦が深化して不安定な状況にあり、また今よりも生活のセーフティネットは不十分なためにいつの間にか消え去るような人も多かったのです。
以前読んだ「学歴貴族の栄光と挫折」では、かつては大学を卒業するだけでエリートとして特権的な生活を送れていたのが、1960年代くらいからそうではなく若者たちの不満が高まったことが書かれていました。
大学生に限らず、従来のライフステージが完全に崩壊して人生そのものの不透明さも増していたことでしょう。
一方で、昭和ノスタルジアを絶賛する人たち(これには安倍首相や当時の野田首相も含まれます)の多くはエリート層であり、彼らから見れば当時は若き日のよい思い出なのかもしれません。

個人的なことになりますが、私は「プロジェクトX」を娯楽作品としてではなくノンフィクション作品として高い評価を下す人は、あまり信用していません。
そして、会社員をやっていると「プロジェクトX」を好む人にたくさん出会います。
実際に研究や開発の仕事をしていたら、会社において物事が実際に進むのとは全く別の論理が描かれているのがわかるのですが、それにも気づけないような人がかなり高位の人にもたくさんいるのに驚きます。
案の定というか、ねつ造疑惑があったりしてプロジェクトXは打ち切りになりました。
問題となった回以外も、ねつ造とまでは言えないまでもいわゆる「情報の取捨選択」により、相当実態からはゆがめられた内容で放映されていました。

本書では、それぞれの作品の検証を経て、昭和ノスタルジアなるものが、いかに受け手によって望ましいように情報が変化した結果であるかが述べられています。
そして、六作品それぞれが違った形で当時を表現しているのですが、すべて製作者の思いにより当時のある部分が強調されてある部分は背景に退いています。
「フラガール」では閉山しつつあった炭鉱で働く若い女性たちが希望を持ってフラガールになった部分が強調されますが、一方でそうして再就職できたのはごくわずかであり、多くの炭鉱労働者が極めて厳しいリストラの末に生活苦に陥ったことなどはほとんど触れられません。
これも一種の理想化ともいえます。
昭和ノスタルジア作品は、今とは異なった理想的な時代への要求が強い、そういった社会背景があったからこそ成り立つのでしょう。

本書はもう少し軽い読み物だと予想していたのですが、かなり本格的な専門書です。
用語も難しいのですが、内容はそれに見合って理屈だっていて面白いです。
漫画などでレトロゲームものが増えているのも、また似たような背景なのかもしれないとも思いました。
  1. 2017/04/16(日) 22:52:23|
  2. ★★★★★
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天安門

著者のリービ英雄は「9・11 変容する戦争」で「千々にくだけて」を読んだことがあったのですが、「未完の平成文学史」で著者が紹介されているのを見てまたほかの作品を読んでみたくなりました。
リービ英雄は、アメリカ生まれですが、父親の仕事の関係で子供のころは台湾に住んでいました。
その後、両親の離婚に伴い香港へ移住。
さらに青年期には日本にわたり、プリンストン大学在学中からは日本とアメリカを往復する生活に入ります。
40歳でスタンフォード大学の教授を辞職して以降は日本に定住するという複雑な経歴の持ち主です。
母国語は英語ですが、日本語で小説を書き、北京語も会話はできる程度には堪能です。
やや、「日本を称賛する外国人」として利用されることが多いのが気になるのですが…。
本書に収められている短編は、いずれも著者の経験に基づいており、自分のルーツを探すために中国を訪れた白人を描いたものです。

いずれの作品も過去と現在が行ったり来たりして読みづらく、かつ同じようなテーマが続くので飽きてくるというのはあるのですが、著者の特異な出自による浮遊感がとても良く伝わってきます。
本書を読んでいると、著者は中国で露骨に収入を聞かれたり、旅行者や現地の業者にぞんざいな扱いを受けたりと、不快な目にばかり遭っているように見えるのですが、それでもたびたび中国に行くのはなにか執念のようなものを感じます。
とくに、古代に中国に移住したユダヤ人の痕跡を探る「ヘンリーたけしレウィツキーの夏の紀行」を読んでいると、ルーツというものの重さが印象的でした。
今となっては当時のユダヤ人は完全に同化してしまい、「彼らがユダヤ人の末裔だ」ということすらいうことができません。
それでも、シナゴグの跡であり、今では単なる井戸のような穴となってしまった箇所にたどり着いた時の満足感は、自らの故郷をもたない著者の同化に対するあこがれの表れなのかもしれません。
  1. 2017/04/02(日) 08:19:00|
  2. ★★★★
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時は過ぎゆく

田山花袋により大正5年に発表された作品です。
1952年に岩波文庫から出版されたものが、改訂されずに今でも版を重ねているので、漢字などはすべて旧字体のままです。

解説文に田山花袋が語った内容が紹介されています。
人間も四十になつて人生の全圓がまづ見わたせるといっていいね。
といふのは、自分が生きてきたのが四十年、その四十年の間に見てきた人たちが順々にさきへ生きて行つたのが四十年、つまり年齢の上からいふと、四十を中心にして前後へのびた八十年の生活が、空想でなしに觀照することができるやうになつたんだからな。
ぼくなども今にして始めて(ママ)五十、六十の人の心理も、七十、八十の人の生活も、ほぼそれと見通せるやうな氣がするよ。
私も似たような年齢ですが、必ずしも完全同意ではなくとも、言いたいことは理解します。
かつて若かった人もすぐに年を取り、年をとると容赦なく現実がやってきます。
逆に今では年をとって現実に打ちのめされたような人であっても、若かったころ、とりわけ幼年自体には夢にあふれていたはずです。
年をとるのは悪いことばかりではありませんが、マイナスの面が存在して、しかも避けることができません。
このあたりについての想像力は、20代のころはなかったと痛感します。

本書は、元家老の「旦那」の家に仕える良太という人物の人生を中心として、明治維新から大正初期までの世の移り変わりを表したものです。
かつての士族が明治維新後落ちぶれ、一方で百姓に過ぎなかったものが土地長者になったり、50年の間に世は激しく移り変わります。
そして個々の人々も同じように変化します。
若くて美しかった娘が姑との折り合いが悪くて心身を害して醜く死んでいったり、学問への志にあふれた青年が兄弟を養うために人生の苦難を経験して中年期には見る影もなくやつれ果てたり…。
ほとんどの人間は若いころの夢や希望をそのままの形で叶えることなどできません。
しかも、この時代には結核という死の病がまだ克服されておらず、健康な人間もいつ死ぬかわからない状態でした。
たとえうまくいったように見えても、時代の変化に左右されて当初の形のままではなくゆがんだ形になることもしばしばです。
よく、「現代は環境の転変が激しい」といいますが、それは明治の時代でもそうだったのであり、戦争や死病の危険が少ない分まだ現代のほうがましなのでしょう。

解説文によると田山花袋はこの小説と「田舎教師」の2作が自信作だったそうですが、確かにそれもうなずける内容です。
タイトルそのままですが、まさに「時は過ぎゆく」ものであり、二度と戻ることはないことを実感させられます。
典型的な自然主義の名作だと思います。
  1. 2017/04/02(日) 07:53:09|
  2. ★★★★★
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レ・ミゼラブル

以前読んだ「ルーゴン・マッカール叢書」が面白かったので、同じフランスの小説でもやや時代が遡った本書を読んでみようと思っていました。
本書では1832のパリ六月暴動の場面でクライマックスを迎えますが、「ルーゴン・マッカール叢書」の「壊滅」は1871年のパリ・コミューンがクライマックスです。
六月暴動は数日で鎮圧されたのに対し、パリ・コミューンは2か月持ちこたえたという違いはありながらも、結末がよく似ており、ゾラが「レ・ミゼラブル」を意識していた可能性はとても強いように思います。

本書はまだ今のような小説のエンターテインメントとしての作法が定まっていなかったのか、ところどころ著者の政治的意見がさしはさまれています。
そもそも著者のユゴーが政治家として失脚して亡命生活を送っている最中に書かれた小説だということもあり、明らかな政治的な意図が感じられます。
そのため、小説の本筋から大きく外れて現代の世相を著者なりに評論した箇所が長々と続くことが多く、はっきり言えばこれらの場面は読むのが苦痛なことが多いです。
とくに序盤のワーテルローの戦いの箇所は、膨大な量の描写が本筋との関連を明らかにしないまま延々と続き、いったい自分は何を読んでいるのかよくわからなくなってしまいます。
現代の視点からエンターテインメントとして読むと、完全に失格だと思います。

現在でも名だたる批評家が、この迷路のような小説を高く評価しているのですが、なにやら難しそうなものを持ち上げるような風潮を感じなくもありません。
物語の本筋自体は面白く、悲惨な人生の末の後半生に聖人として生きるジャン・ヴァルジャンをはじめとして、パリの最下層で生きる様々な人たちが生き生きと描かれています。
それだけに、あまり関係のないように見える箇所を読むのがよけい苦痛に思えるのですが…。

普通に考えると、本書を読む意味はあまりなく、たくさん出版されているダイジェスト版を読めば十分でしょう。
研究者などは本書を読むといいのでしょうが、そういった人は日本語訳を読むくらいなら原書をよめばいいとも思います。
  1. 2017/03/29(水) 11:51:31|
  2. ★★★
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人工知能のための哲学塾

本書は、スクウェア・エニックスでゲームキャラの人工知能開発に携わっている人物によるものです。
著者が発起人となって全五回にわたって行われた「哲学塾」なる催しにおいて、講演した内容をまとめたものです。
フッサールやデリダなど、主に大陸系の哲学者を題材にしたものとなっています。
少しだけ毛色の違うのが「生物から見た世界」のユクスキュルです。
ユクスキュル自体は生物学者なのですが、生物からは世界はどのようにとらえられているのかという観点からは、確かに哲学ともいえるなとも思います。

哲学の世界でこれまで得られてきた結果を活かして人工知能の開発が進んできた…というような内容なのですが、素人ながら本当にそうなのかとても疑問に思いました。
人工知能の開発は単独で進んでいて、その成果を哲学の概念に無理やり当てはめるとこうなった、というような印象を受けたのです。
冒頭の現象学にしても、現象学がデカルト的な懐疑ではなく、判断停止を行うことにより広い領域の現象を取り扱うことができると主張するのはその通りなのでしょうが、そのことと人工知能に対して「志向性」を与えることとの関連性が極めて薄いように見えます。
現象学という広い領域のごくごく一部を都合よく取り出して人工知能の分野に引っ張ってくることで、学問的な「それっぽさ」を与えようとしているようにも見えたのですが…。
ただ、本書の分量からして人工知能について深く述べることは不可能であり、その述べられていない部分において本当に現象学と深く重なり合っているという可能性もあるのですが、無理やり今風のかっこよさを作り出しているような印象を受けました。
(「サイエンス・ウォーズ」で解説されていた「ソーカル事件」を思い出します。)

むしろ本書で扱われているような形而上学的な哲学ではなく、実験科学的な認知情報に関する学問のほうが親和性が高いのではないでしょうか。
無理に遠い分野とつなげようとするよりも、地道に近い分野同士の共同で得られた成果をちゃんと固める方が先のようにも思います。
  1. 2017/03/19(日) 19:14:53|
  2. ★★
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巡礼と文明

古本屋さんで見つけた本です。
「宗教文明叢書」なるシリーズの一冊目なのですが、中に収められている文章は玉石混交です。
もっとはっきり言えば、石だらけです。
よくこれを学術書として出版できたものだと思います。

以前読んだ「緑・砂・人」でも感じたことなのですが、ある程度身分の確立した人だったら単なる観光旅行の記録であってもちゃんとした体裁で出版できるものなのですね。
本書の最後に収められている文章の著者は、当時の聖心女子大学キリスト教文化研究所室長なる肩書を持った方なのですが、内容は(おそらくは公費で)なんどか月単位の海外旅行に行った感想文でした。
このような文章が一つだけではなく、本書に収められている中の三分の一程度を占めています。
本につけられた「巡礼と文明」というタイトルがかなり立派だったので少し期待していたのですが、この内容だったら定年退職後の楽しみに自費出版する程度のものだと思います。

本書に収められている文章のもう一つの典型例は、キリスト教神学者がキリスト教の正しさを無条件に認めたうえで、現実世界をどうキリスト教的に解釈するかというものです。
これは、うまく著者のスタンスをつかまないと、文章を読んでいても明らかに証明できていない内容を無造作に前提していて、とても混乱します。
これはこれで、キリスト教世界にどっぷりつかった人には良いのでしょうが、私のような俗世間に生きるものが読んでも得るものが少ないですね…。
このタイプの文章もやはり、本書に収められているうちの三分の一程度を占めていました。

よって、残りの三分の一が、まともに読む価値のあるものです。
奇矯なふるまいと派手な女関係で有名な花山上皇が、西国巡りの祖と言われるようになった原因について推察した文章や、メキシコのグアダルーペ巡礼が国家の統制を受けることにより宗教活動全体が管理的になった話などは、読んでいても妥当性の有無はともかくとして面白かったです。
ただ、やはりまともな文章の割合が少なすぎて、ちょっとこの本を読んでいて楽しかったとはいいがたいですね…。
  1. 2017/03/19(日) 18:46:45|
  2. ★★
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東方諸国記

ほぼ50年前に出版された「大航海時代叢書」シリーズです。
箱なしで古本屋価格300円でした。

著者のピレスは1510年代にインドやマラッカで商館員として働いたのち、当時の明国に使節として派遣されたという経歴を持ちます。
インド航路を開いたヴァスコ・ダ・ガマが帰国したのが1499年なので、まだ当時はアジアの地はほとんど未知の状態でした。
ペドロ・アルヴァレス・カブラルや、アフォンソ・デ・アルブケルケなどの初期の征服者が次々と現地の王朝に対して戦争を仕掛けていた時代です。
ピレス自身は広州までは到着したのですが、そのころにポルトガルと中国の関係が悪化したため、広州から移動できなくなりそのまま没したという説が有力です。
本書はピレスがマラッカに滞在していた際に書かれたものなので、中国に関する記事は伝聞に過ぎません。
それよりもマラッカやスマトラ、ジャワといった自らが商館員として情報を入手した地域に関する記述が厚く、とくにマラッカ王国(マレー半島からスマトラ島中北部にかけてを支配)については最後の章で詳しい歴史が述べられています。
当時のマラッカ王国は現在でも信頼に値する文献がないため、本書はその意味においても貴重だとのことです。

本書は未完成稿とのことで、まとまりがなくわかりづらいです。
一応紅海からパキスタン、インド、セイロン、インドシナ、そして琉球や日本までが取り扱われていますが、ほとんどの区域は事実の羅列が多く、著者の感想らしきものはほとんどありません。
そのため、無味乾燥でそれほど面白いものではないかもしれませんし、その割には膨大な量なので読みとおすにはそれなりの気合がいります。
それでも当時のポルトガル人にとってのアジアというものがとても良くわかります。

とくに驚いたであろうと想像されるのが、インドからスマトラ島で行われていたサティ(寡婦殉死)の慣習です。
これは夫を失った妻が、その葬式において着飾ったうえで火に自らの体を投じて自殺するというものです。
おそらくは、来世でも夫に仕えるとかそういう意味を持っていたのでしょう。
絵画的にはいくらでも美しくできるのでしょうが、肉が焼けるにおいと、おそらくは苦しみの声、そして燃え上がる肉体が見えて地獄のような状況だったと推測されます。

本書は通読するものとしてはやや体裁が整っておらず、資料的価値のほうが高いのかもしれません。
かなり早期のものなので、多くの箇所で情報が細切れなのはやむを得ないところですが。
  1. 2017/03/12(日) 17:41:46|
  2. ★★★
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家庭の幸福、帰去来 、彼は昔の彼ならず、花燭、風の便り、駈込み訴え、鴎

あいうえお順に読んでいる太宰治の作品です。
「か」で始まる作品のうち、ある程度分量のあるものを青空文庫で見つけて読んだものです。

「家庭の幸福」「彼は昔の彼ならず」「鴎」の三作品は、正直言ってあまり印象に残りませんでした。
煮え切らない男の内面の葛藤を延々と述べたような作品。
主人公は往々にして小説家だったり、または定職についていなかったりします。
太宰治はこの手の主人公を書くのが一番得意だったのかもしれません。

「帰去来」は「津軽」と似た帰郷の物語です。
長らく帰郷せずに絶縁同様の実家を久々に訪れ、記憶に比べてはるかに老いてしまった母親やなじみの人々と会う、というものです。
これはある程度は著者の体験をもとにしたものでしょう。
どんなに若々しかったり、頑強に見えたりする人でも老いるのだという現実を目の当たりにさせられます。

この中では「駈込み訴え」が一番有名なのでしょうか。
私も学生のころ教科書で読んだような覚えがあります。
ユダがイエス・キリストを売り渡す場面。
いかにユダがイエスを愛していて、しかも彼の愛が報いられないかを切々と訴えかけます。
今ふうに言えば完全なる「ヤンデレ」です。
愛するあまりにその対象を滅ぼしてしまいたくなるというねじれた感情。
これを高校の教科書に掲載するというのは、またかなり思い切ったことだったのだと今更ながら思います。

この中で最も面白かったのは「風の便り」です。
中堅作家と重鎮との文通。
中堅作家のほうは太宰治の作品らしいいじけた性格ながらも、その作品は評価されているようです。
その中堅作家の迂遠な内容の長文に対してそれなりにやさしく対応する重鎮。
結局著者が表現したかったことがよくわからないながらも、心が通じ合っていることだけは感じられる不思議な作品です。
  1. 2017/02/28(火) 22:22:59|
  2. ★★★★
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ブラック・シオニズム―アフリカ帰還の夢と現実

古本屋さんで見つけて購入しました。
私にとっては初見でしたが、かなり有名な本だそうです。

奴隷貿易でアメリカ大陸に連れてこられた黒人の子孫による、アフリカへの「帰郷」に関して述べられています。
もともとは自分たちのルーツであるアフリカ大陸にユートピア的なロマンを抱いての帰郷でしたが、現実はそれほど簡単なものではありませんでした。
ヨーロッパからアメリカ大陸への移民と同様、最も早くに移り住んだ人々の多くは亡くなり、残った人々は内輪もめや原住民との闘いに明け暮れました。
移民の側では同じ「黒人」ということで勝手に同朋意識を持っていたのですが、現地の黒人から見ると領地を奪いに来た外敵でしかなかったのです。

その後リベリアでは、アメリカから来た黒人が、かつての植民地における白人のような「貴族」としてふるまい、現地の黒人を搾取するという構図が出来上がります。
「アメリコ・ライベリアン」と称する黒人貴族たちは複数人の原住民を召使として使役し、あらゆる場所で汚職が蔓延する破たん国家が完成しました。
このあたりはまさに「アフリカの内幕」でも読んだ通りの内容です。
本書が書かれたのは1977年でしたが、その後リベリアはアメリコ・ライベリアンの圧政への反発からクーデターが発生、トルバート大統領が殺害されたうえに、クーデターの首謀者である次のドゥ大統領もまた暗殺されるなど、完全に崩壊してしまいました。
本書に登場していた人々の多くも、内戦の影響で生活が困難になったのだと推測されます。

それ以外にも多くの問題が指摘されていますが、その中の一つがアフリカ出身の黒人と結婚してアフリカに移り住んだ、アメリカ大陸出身の黒人女性です。
日本でも、都会出身の女性が結婚して夫の地元である田舎に移り住んだ結果、問題が発生することがありますが、それと全く同じ状況です。
本書で述べられているのは主にリベリアやシエラレオネという西アフリカの諸国ですが、これらの国々では大家族制や一夫多妻制が(本書が発行された当時には)まだ常識として残っており、先進的なアメリカ大陸出身の女性から見ると我慢できない状況でした。
大家族においては、親戚の収入は家族全体の収入であり、アメリカ帰りのエリートたる親戚は金持ちなのだから彼らを養うことは当然なのです。
また、親類が勝手に家に入り込むのも当然の権利であり、嫁は夫とその親類の奴隷として働くのも当然なのです。
これはロマンチックな「未開人」のイメージではなく、現実にありうる閉鎖的な田舎社会とどう付き合っていくかの問題ですね…。

イスラエルでもそうなのですが、無理やりに大量の人を植民すると必ずひずみがうまれるという好例です。
アフリカに夢を抱いた人の多くが幻滅してアメリカに帰っていったというのも、やむを得ないことだと思います。
  1. 2017/02/26(日) 22:34:43|
  2. ★★★★★
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政治過程と政策

震災と経済」と同じく、「大震災に学ぶ社会科学」のシリーズです。
「震災と経済」のほうは電子書籍で読んだのですが、文字も含めて全ページが画像ファイルから構成されていたので画面の小さいタブレットでは読みづらくて後悔しました。
それなので今回は紙の本で購入しています。

本書では多種多様な主体の震災に関連した行動を分析しています。
国会、行政、司法、加えて官邸という公共主体や、東京電力、民間業者、市民団体などの私的な主体、そして選挙における市民の行動などその射程は幅広いです。
本書では、過去他の本で読んだ内容が参照されている箇所がいくつか見受けられました。
たとえば、当時の管直人首相のマイクロマネジメントの弊害については「福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書」以降さまざまなところで述べられていますし、行政の人員が日本ではきわめて少ない(「小さな政府」となっている)ことは「市民を雇わない国家」が参照されています。
これら2点については定説になりつつあるのかもしれません。
管元首相には気の毒なことですが…。

ほとんどの章は読んでいても納得いく内容でしたが、なかでも最もおもしろかったのは「福島原発事故の定量分析:国際比較の観点から」です。
これは、過去記録にある最大の浸水高さと、現在の原発の非常用発電機の設置されている海抜を比較したものです。
今回メルトダウンを起こした福島第一原発は、被害の少なかった女川原発、東海第二原発、福島第二原発よりも脆弱なのは当然としても、他国の原発に比べても極端に低い場所に非常用発電機が設置されていました。
これは、日本は津波のリスクが高いことによるものでしょう。
そして、世界的に最大のリスクを抱えているとされた8か所のうち、美浜、高浜、浜岡、福島第一、福島第二、敦賀と実に6か所が日本に設置されたものです。
(残り2か所はいずれも米国のセーレム/ホープ・クリーク、ミルストーン原発)
そして、日本に限って言うとリスクと稼働の古さは明確な負の相関をもっていて、最初期に建てられた原発ほど対策ができておらず、リスクが高いことを示しています。
本章が書かれた後で、高浜原発では今回防波堤をかさ上げしたのですが、この結果どの程度リスクが減少したのかは気になります。

自民党本部が福島県知事選挙で自民党福島県連が擁立しようとした候補を拒否して、民主党との相乗りになったことについて、こう述べられています。
安倍政権は、地方の事情よりも、政権維持を優先する傾向が強いように見える。
最近の東京都知事選では、安倍首相とは別のところで地方の事情が優先された結果、自民党には少なからずダメージがあったように思えますが、これはなにか別の論理が働いた結果の行動なのでしょうか。
  1. 2017/02/19(日) 21:40:32|
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宇宙の統一理論を求めて――物理はいかに考えられたか

10年くらい前に読んだ「万物理論―究極の説明を求めて」という本を思い出します。
この本は、この世界に存在する時間、空間、重力などを素粒子論を用いて統一的に説明しようとしている最先端の物理学について、素人にもわかりやすく説明しようというものでした。
ただ、当時私が読んだ感想では、その理論について言いたいことは理解するのですが、その理論に行きついた過程が全く示されないために、次々と事実らしきものが突きつけられてもそれに対する意義を感じることができない、というものでした。
新興宗教の教義で、教祖たる神がいて、その神がどのような方法で世界を作り出し、そしてこの世の原理は何かに基づいていて…というような創作(に見えるようなもの)を述べているものがありますが、それとあまり変わらないような印象しか受けないのです。
やむを得ないことだとは思います。

当時からかなり時間が経ったので、同じような本を読んでも異なった感想を持つかと期待したのですが、やはり10年前と同じでした。
次々と新しい素粒子や理論が登場して、その素晴らしさを熱心に訴えかけてくるのですが、妥当性が全く判断できないためになにも思うことがないというのが正直なところです。
途中から用語の理解が飽和して、ついていくことができませんでした。
理論物理系ではないとはいえ、理系の専門教育を受けた私がついていけないのだから、ほとんどの人は読んでも理解できない内容だと思います。
よくある「すでに理解している人にしか理解できない」タイプの本なのかもしれません。

そもそも数式なしで素粒子論を知ろうということ自体に無理があるのだと思います。
さまざまなたとえ話を駆使して、なんとかわかってもらおうとしている努力は見えるのですが…。

  1. 2017/02/16(木) 23:41:48|
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祝島のたたかい――上関原発反対運動史

最近、何の予備知識もなく観光目的で祝島を訪れたのですが、いたるところに「原発反対」というペイントや看板が掲げてあるのにとても驚きました。
そもそも、対岸の室津半島に原発建設の計画があること自体初耳だったので、いったい何の原発に反対しているのかすらよくわからなかったのです。
帰宅後に室津半島先端部に建設予定の上関原発に対し、祝島の住民の多くが反対していることを知って興味を持ち、本書を買い求めました。

著者は、祝島の漁協の組合長と反原発組織「愛郷一心会」の会長を長年務めた人物です。
そのため、本書は当然ながら反原発のスタンスで書かれたものです。
しかし、かなり公平で冷静な文章なのでとても読みやすかったです。
(なんども同じことばかり言うようですが、原発賛成にせよ反対にせよこの種の本は感情的で読むに堪えないものが極めて多いのです。)
原発反対運動の初期について書かれた部分を引用します。
確かに、原発推進工作を一切許さないとする姿勢は、島内では十分その目的を達してはいたが、当初のように連日定期船乗り場に島民を動員し、いちいち来島者の詮索をするなど、島外の人から見れば異様で息苦しく、また重い空気を強く感じさせ、島への悪印象を抱く人も多く作ってきたのは事実である。
活動家の側でこういう自己認識ができるというのは、極めて重要だと思います。
右翼、左翼、その他の政治的な立場によらず政治活動している人の多くは、自分が外から見て異様に見えることがあることを全く理解していない、または理解が足りないように感じることが多いのです。
著者が率いる活動も上記のような認識の結果、方針を転換して持久戦に耐える体制が産まれました。

もう一つ、この活動が長期にわたって破たんしていない理由は、外部からの関与が少なかったからだと思います。
学生運動では、活動が外部の左翼活動家に占拠された結果、市民からの支持を急速に失って崩壊した例がありました。
この運動にも外部からの活動家が入りこんではいますが、島民が主体となっているために形を保っているのだと思います。
しかし、祝島も高齢化、過疎化の影響で生え抜きの島民の絶対数が減少しています。
新たに帰島し反対運動へ加わってきた人たちの中には、島社会全体の利益という側面への配慮が欠け、今まで長年にわたって島を守ってきた住民に対する敬意が欠けているのではないか、と思われる傾向も出てきた。
自らの立場なり利害をまず優先させていると感じられるような場面も、垣間見られるようになってきたのである。
要するに、運動の中で新しい危惧として現れてきたのは、個人の自己顕示欲の発露の問題であり、さらに旧来の田舎地域での住民支配構造への反動的回帰志向である。
ここでいう「反動的回帰」は、かつて「田舎ボス」が一般の住民を支配してきたように、新たにやってきた活動家がリーダーとして旧来からの住民を支配しようという傾向を指します。
「個人の自己顕示欲の発露の問題」というのは見事な表現だと思います。
政治活動にはまりこむ人のある割合は、政治活動により達成される目標を見失い、政治活動そのものが目的になることがあります。
(かつて内ゲバに明け暮れた新左翼などがその好例だと思います。)
祝島の古参島民の数が少なくなった時に、外来の野心家に乗っ取られないかが極めて重要なように思いました。

著者は、本来は文章のプロではないはずですが、その割にはとても読みやすいと思います。
今後も今のような活動が続けられるかは、次のリーダー次第なのかもしれません。
  1. 2017/02/12(日) 21:04:03|
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万延元年のフットボール

大江健三郎の作品をちゃんと読むのは初めてですが、こんなに面白いものだとは思いませんでした。
村上春樹の「1973年のピンボール」がこの作品に影響を受けたものだというようなことがよく言われたりするのですが、私は「1973年」のほうのちょっとおしゃれな雰囲気が苦手だったので、それに引きずられて本書もなんとなく避けていました。
未完の平成文学史」で紹介されているのを読んで、食わず嫌いするのももったいないと思いなおしたものです。

舞台は第二次大戦の記憶も残る時代の四国の山奥の村。
少し前に「てんやわんや」を読んで以来、私は勝手に四国の村といえばユートピア的なイメージを想像してしまうのですが、本書の村は全く異なります。
村にもともとあった小規模の商店群は新しくできたスーパーマーケットとの競争に負け、経済的な支配下に置かれている状況。
この村で生まれた主人公の根所蜜三郎は、進学で東京にでたものの親友の奇怪な自殺に加えて、誕生した子供が障害児であったという衝撃により、妻とともに心理的に行き詰まります。
蜜三郎の弟の鷹四は、兄とは別個に左翼闘争失敗による心理的行き詰まりでアメリカに潜伏していたのですが、突然帰国して兄夫婦を誘って四国の故郷に帰りました。
村全体の行き詰まりと、蜜三郎一行の行き詰まりが共鳴する中、かつて万延元年に当地で発生した一揆をなぞるようにして暴動が起きる…。

私は本書の時代には生まれていなかったのですが、安保が成立してしまったことで若者たちが閉塞を感じていたのでしょうか。
全編を読んで感じたのは、暴動によるグレートリセットの願望です。
一例として、密三郎の生家の女中であったジンが挙げられます。
彼女は数年前から食欲が収まらずに絶え間なく食べ続けた結果、異常な肥満体となってしまいました。
しかし、暴動をきっかけに食欲は完全になくなり、一転してみるみる痩せ始めます。
おそらくは、近い未来には心穏やかな状態で死を迎えるのでしょう。
蜜三郎たちも長期の閉塞状態を脱して、新たな生活を示唆するように物語は終結します。
このあたりは著者自体の願望もあるのでしょうが、なかなか現実はそういうものでもないようにも思います…。

噂通り文章はやや読みづらいですが、それでもなれるとどんどん読み進められます。
評論家の江藤淳はこの小説の主人公の名前「蜜三郎」などが不自然で奇をてらったものだと批判して、これがきっかけで大江健三郎と絶縁となってしまったそうです。
確かに言いたいことは理解するものの、絶縁するほどこだわる点なのかもちょっと疑問に思いますが。

  1. 2017/02/12(日) 19:45:48|
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言語起源論の系譜

言語起源論とは、あらゆる生物の中で人間にだけ与えられた言語がどういった起源を持つかについての議論です。
本書では「キリスト教世界における」言語起源論について述べられています。

大まかに分けると、言語は神から人間に与えられたものだという考え方と、言語は神とは関係なく人間の特性として得られたものだという考え方の二種類があります。
また、この対立軸とは別に、世の中にあふれかえっている多くの種類の言語の祖たる「原言語」のようなものが存在するのか、または多くの言語はそれぞれが個別に独立して発生したのか、という分け方も考えられます。
容易に想像できることですが、古代から中世の西洋においては言語は(キリスト教の)神による賜物であり、かつすべての言語の始まりはヘブライ語だという考え方をする人が多かったようです。
この説をとった場合、やり方によるとたとえばあらゆる人間から隔離されて育てられたいわゆる「野生児」は、自然とヘブライ語を習得するはずだという結論を導くことも可能です。

この議論は、自国の言語をあらゆる言語の祖であると主張することにより国威発揚にも利用できることもあり、古来から多くの思想家がさまざまな意見を述べてきたようです。
ただし、そのどれもが、いわゆる「反証可能性」を全く備えておらず、どれも言いっぱなしのように見えます。
言葉を変えれば、誰もが好き勝手な推論を主張することができて、かつお互いに相手の説を覆すことが不可能なため、あらゆる説が乱立したうえに、その時代の雰囲気によってそれぞれの説の優劣が目まぐるしく入れ替わってしまうというたぐいの議論なのです。
丹念に時代を追ってこれらの説を追っているのですが、正直言って私の好みからは全く外れており、意味のない空想を延々と読まされているような気分になってしまいました。
予想通りというか、最終的にはチョムスキーの生成文法論に到達することになります。

言語に起源などというものがない以上、言語の起源とは何かを問うことには意味がない、というもっともだと思われるソシュールの考えにたどり着くまでの助走期間が長く、とても読んでいて疲れる本でした。
この種の本にしては異様なほど安価ではあるのですが…。

  1. 2017/02/08(水) 21:20:16|
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故事成語で読み解く 中国経済

最近読んだ「社会人のための現代ロシア講義」でロシアについて理解が深まった(ような気がした)ので、同じくいまいち理解できていない中国についても理解できないかと思って読んでみました。
中国についての本は、とくに時事関係において感情的なものが多くて選ぶのに苦労します。
右翼、左翼どちらの観点からも、感情的な本は読むに値しないほど議論が雑なことが多いのです。

本書では、公開されたデータをもとに中国経済について様々な観点から詳細に述べられています。
中国経済を理解するために著者が好んで用いる手法が、かつての日本のデータとの比較です。
かつての戦後日本と比較すると、実質の経済成長率の推移は現代の中国ととても良く似ており、2014年の中国はちょうど1970年前後の日本に相当します。
もちろん、時代などの個別事情があるのでそのまま日本と同じ道を歩むとは言い切れないのでしょうが、今後経済成長が鈍化して安定した低成長に入ることは間違いないのでしょう。
そこで重要なのが、自前の技術になるとのことです。
これまでの中国は海外の技術を導入することで急速な経済発展を遂げてきましたが、これがいきわたってしまったのちには自前の技術開発による経済発展が必要となります。
自前の技術は、外からの導入に比べて進みは遅く、かつ時間もかかります。
それでも自前技術が現れない限りは、より賃金の安い後発国に市場を奪われてしまうことになります。
すでにドローンでは中国企業が世界一の技術を保有していますし、家電の競争力も世界一です。
そう考えると、中国も韓国や日本のような自前技術のラインナップが揃うのもそれほど先のことではないようにも思います。

本書のタイトルの「故事成語」の部分のおかげで、見た目がとても胡散臭いものになってしまっていますが、内容はとても理屈だったものです。
後半の三分の一くらいは、中国経済について学ぶ人のために、データを手に入れるノウハウが詳細に記されています。
ちょうど私くらいの初心者にとってはよい本でした。

  1. 2017/01/30(月) 21:25:35|
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光の領分

実は、津島佑子が太宰治の娘だというのは、本当にごく最近知りました。
二世タレントは親の名声があると有利な点も多いのでしょうが、二世作家は純粋に自分の作品で勝負をしなければならない割合が大きく、二世であるメリットはあまりないような気がします。
それでも、二世作家がかなりの数で存在するのを見ると、物語を作る能力は遺伝するのだろうかと思ったりもします。

本書は夫(藤野)に去られて娘と一緒に暮らす女性の一年を描いた物語です。
夫は一方的に別居しておきながらも、離婚はしようとせずに妻である女性の人生に今後もかかわろうとし続けます。
端から「お前は一人では生きていけないのだから、俺が支えてやるよ」とでも言うかのようです。
夫として私に立ち向かう藤野の口調は、私に、最早、異和感(ママ)しか与えなかった。
その遠い、意味もよくわからなくなってしまった声に、それでも私は、藤野のほうから切り捨ててくれない限り、耳を傾け続けなければならないのだろうか。
別居を決めたのは藤野の方だったのに、それでも私は藤野を忘れてはいけないのですか。
私はもう一度、まわりの人影を眺めた。
それぞれ私が知っている人に似ているような人影は、一様に深々と頷いた。
それに対して女性のほうは、2歳(物語終了時には3歳)の娘に振り回されたり、隣人に怒鳴り込まれたりとうまくいかないと感じながらも、夫から離れて他の世界に飛び込もうとします。
酒に酔いつぶれたり、料理があまり上手でなかったりと模範的な母親からはほど遠いのですが、なんとか人生を構築しようと手探りで進めていきます。
夫との離婚が成立して、一年間暮らした部屋を離れて区切りを付けるところで物語は終わります。

頼れる人がおらず不安な状態でありながらも、世の中からふり飛ばされずにしがみつくような状態。
それでも、死ぬまでは生きていかざるを得ないのも事実です。
母になったからといって自動的に大人になるわけでもなく、母親も時には2歳児以上に子供だったりもするのですが、それでも母親が支えなければ二人で自滅します。
枷となりつつも、時には救いともなる娘との一年を書いた美しい文章は、見事だと思いました。

  1. 2017/01/21(土) 21:01:55|
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写真のワナ―新・写真の読み方

発行当時、著者は共同通信社に勤務する報道カメラマンでした。
本書が発行されたのは1984年なので、それから30年経過して著者もすでに退職しています。

写真というのは、絵と違って(当時は)ねつ造のハードルが高く、信頼できるメディアであると認識されていました。
これに対して著者は、実際に写真を撮ることを専門にする立場から、写真を使ってミスリードすることはとても簡単であることを述べています。
まず一番単純なのは、撮った写真を選別することです。
撮影した中から自分の主張したいことに都合のよい写真は公にして、矛盾する写真はなかったことにする。
さらには、被撮影者にポーズをとってもらうというのもあります。
ベトナム戦争末期にウィリー・ヴィコイというカメラマンによって撮影された、死んだわが子を抱く母親の写真は大きな話題となりました。
しかし、その後よく見ると母親が紙幣をつかんでいることが判明し、ヴィコイが無関係の女性に金を払って死体を抱いた写真を演出したのではないかという疑惑が発生しました。
現在でも真相はわからないままです。
それ以外にも、ルバング島で小野田少尉が発見された際の写真は、帽子をかぶっているものとかぶっていないものが存在します。
少なくてもいずれかは演出のために後ほど撮影されたものなのですが、どちらが本当の「発見時の写真」なのかはわかりません。
両方とも嘘の写真ということもあり得ます。
当時のカメラは性能が低く、暗い屋外では露出不良のため撮影できませんでした。
そのため、小野田少尉にお願いしてそれらしい場面を後日撮影したということもあり得るでしょう。

それ以外にも、キャプション間違いによるミスリードの例も示されています。
原爆投下時の写真として有名なのが、いわゆるキノコ雲です。
長らく「広島への原爆投下」というキャプションとともに使用されてきましたが、後年これは長崎の原爆であったことが判明しています。
何か意図があったものではなく、単なる入れ違いによるものでしょう。
写真というものが意外と信頼できないことを表すよい例だと思います。

戦争のグラフィズム」では第二次大戦当時に外国向けに作られたグラフ誌「FRONT」の写真において、日本軍を実際以上に大きく見せるために飛行機を切り貼りして水増ししたり、全く別の背景と人物をまるで一枚の写真のように合成したりということが述べられていました。
これも、プロにとっては当たり前だったのでしょうが、当時の一般の人々にとってはあまり知られていなかったのでしょう。
一方現在ではデジカメが普及して、写真撮影の手間が大幅に減りました。
そのため、アマチュアのカメラマンのすそ野が大幅に広がり、写真というものがどの程度信頼できないかについては理解が広まっていると思います。
写真の修正はかつてはプロの仕事だったのが、今では素人でもアプリで手軽に行えるようになりました。
本書発行時に比べると一般の人も「写真のウソ」については敏感になっているようには思います。

  1. 2017/01/21(土) 20:29:54|
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イサーンの医者 農村医療と開発にかけたドクター・カセーの半生

こちらも古本屋で見つけた本です。
大同生命国際文化基金なる、企業メセナの一環として出版されたものです。
amazonで該当するページが見つからないというのは、よほど発行部数が少なかったのでしょう。
自費出版に近いのかもしれません。
この記事ではhontoにリンク張っています。
(hontoでも購入できないことには変わりないのですが。)

タイの農村で田舎医者として保健医療に反省をささげたカセー医師の伝記です。
その後カセー医師は中央政府に進出し、保険副大臣を経て外務大臣や首相府大臣などを勤めました。
貧しい村で満足に教育を受けることもできなかった少年時代から、様々な人の厚意と勤勉により医師になり、故郷に恩返しをするという極めてわかりやすいストーリー。
小学校高学年くらい向けの課題図書としてはぴったりの内容だと思います。
カセー医師の業績自体は相当なものなのでしょうが、本書からはあまり具体的な内容が見えてこないのが残念です。

内容の少なさから見ても、やはり図書館の奥底で眠ってしまうたぐいの本だと思います。
決して読む価値がないわけではないのですが、あまりにも優等生的な内容でした。
https://honto.jp/netstore/pd-book.html?prdid=01193445
  1. 2017/01/15(日) 18:08:34|
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